ラージャヨーガ(パタンジャリのヨーガスートラ)- 心とは何か? ヨーガの目的と到達点 (読書メモ)

2017-08-31
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

ヨーガはサーンキャ哲学を基にしており、その用語を使えば心はチッタ(Citta)と言う。
魂のことをプルシャと呼ぶ。ヨーガにおいて「自己」とはプルシャのことであり、肉体や心(チッタ,Citta)のことではない。

チッタ(Citta, 心)に現れる「想いの波」はヴリッティ(ス)(Vrttis)と言う。語源は「渦巻き」。
例えるなら、湖がチッタ(Citta, 心)、波がヴリッティ(ス)(Vrttis)。

ヨーガの目的と作用は以下2文に集約される。
「心(チッタ、Citta)の作用(働き、諸状態)を止滅することがヨーガ」(Yogaヨーガ・Chittaチッタ・Vrittiヴィリッティ・Nirodhahニローダ)
「そのとき、見る者はそれ本来の状態に留まる」(Tadaタダ・Drashtuhドラシュトゥ・Svarupeスワルーパ・Vasthanamヴァスターナ)
パタンジャリの記した「ヨガスートラ」はこの2文について説明している。

心(チッタ、Citta)にはグナ(Guna)と呼ばれている3つの状態がある。
・タマス(tamas)。闇の状態。獣や愚か者。惰性。
・ラジャス(rajas)。活動。活動的な状態
・サットワ(sattva)。静けさ。穏やかさ。明知。

心だけでなく、自然や宇宙全てがこれらの3つで構成されている。心・自然・宇宙が3つの状態を持つ前の素材は、アッヴィャクタ(定義を持たないもの。個別に分かれていないもの)と呼ばれる。3つの素材から構成される最高のものはマハット(Mahat, 知力、宇宙の知能)と呼ばれ、人間の知力はその一部であり、ブッディ(Buddhi, 覚)と呼ぶ。

マナス(Manas, 意)は印象を集めてブッディ(Buddhi, 覚)に運ぶ。そしてブッディ(Buddhi, 覚)はそれが何なのか決定する。
ブッディ(決定する能力、Buddhi, 覚)によってエゴイズム(アハンカーラ)が生まれる。ブッディ(決定する能力、Buddhi, 覚)が「動」だとしたらアハンカーラ(エゴイズム)は「反動」。

心(チッタ,Citta)の構成要素
・ブッディ(Buddhi, 覚)
・アハンカーラ(エゴイズム, 我慢)
・マナス(Manas, 意)

以下の順で知覚が生まれる。
1. 外の世界からの入力信号が感覚器官(目や耳)を通じて脳にある「器官(インドリヤ(ス))」に運ばれる。
2. 脳の「器官(インドリヤ(ス))」はそれらの入力信号を心(チッタ、Citta)に伝える。
3. 心(チッタ、Citta)では、マナス(Manas, 意)によって印象がブッディ(Buddhi, 覚)に運ばれ、印象を決定する。
4. ブッディ(Buddhi, 覚)による反応によって、アハンカーラ(エゴイズム)が生まれる。
5. これらの混合がプルシャに渡され、対象を認識する。

「内なる道具」(アンタッカラナ)と呼ばれるグループ
・諸器官(インドリヤ(ス))
・マナス(Manas, 意)
・ブッディ(決定する能力、Buddhi、覚)
・エゴイズム(アハンカーラ)
これらは心(チッタ、Citta)で起こる様々な過程。

チッタ(Citta, 心)と呼ばれる道具が食物を通じて得た力を使って「想い」(ヴリッティ, Vrttis)として放出する。よって、チッタ(Citta, 心)は知能のあるものではない。それでもチッタ(Citta, 心)に知能があるように見えるのは、背後にプルシャ(魂)がいるから。

3つの証明:
1. 直接の知覚、プラッティヤクシャ(Pratyaksa)。見て感じることで明らかなもの。世界が存在する、など。
2. 推理。アヌマーナ
3. 真理を見たヨーギたちによる知覚、アープタワーキャ(アープタ)。アープタの知識はその人自身から来る。文字の意味は「到達した」。

色々なヴリッティ(想いの波,Vrttis)
・ヴィカルパ。言葉の惑わし。真実性のない想い。チッタ(Citta, 心)が弱いと惑わされる。
・夢。寝ている時のヴリッティ(想いの波,Vrttis)が夢になる。
・記憶。スムリティ(Smrtih)。記憶とは、主体のヴリッティ(想いの波,Vrttis)が言葉などのきっかけによって意識に戻って来ること。

ヴリッティ(想いの波,Vrttis)が消えた後に残るのは印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)。
印象(サムスカーラ, サンスカーラ, 行)は潜在意識にある想念。
印象(サムスカーラ, サンスカーラ, 行)が多数になると習慣になり、性格を形作る。

ヴリッティ(想いの波,Vrttis)を完全に抑制された状態に保とうとする努力が「修行」。
抑制された状態をヴァイラーギャ(離欲)と呼ぶ。
チッタ(Citta, 心)がヴリッティ(想いの波,Vrttis)に支配されるのを防ぐのがヴァイラーギャ(離欲)。無執着とも言う。
ヴァイラーギャ(離欲)を実現すると、プルシャ(魂、真の自己)の性質が現れて来る。

チッタ(Citta, 心)はサットワで出来ていますが、ラジャスとタマスで覆われている。プラーナヤーマによって覆いを取り除くことができる。すると、マナス(Manas, 意)が集中できるようになる。集中はダーラナ(Dharana)と言う。

集中(ダーラナ, Dharana)するためにはプラティヤハーラも必要。
プラティヤハーラは、自分の心(チッタ,Citta)を神経中枢に意のままにつけたり離したりできるようになること。文字としては「(自己に)向けて集める」の意味。

集中(ダーラナ, Dharana)すると時の概念が消滅する。
よって、過去と現在が来て1つになる時、心は集中(ダーラナ, Dharana)した、と言われる。

集中(ダーラナ, Dharana)を続けて行うのが瞑想(ディャーナ、Dhyanam)。
瞑想(ディャーナ、Dhyanam)が更に深まり、瞑想の対象の形が消え去って意味だけを認識することをサマーディ(Samadhih)と呼ぶ。

サマーディ(Samadhih)は2つに分けられる。
1. サムプラグニャータ(Samprajnatah)。自然を支配する力の獲得。「種ありのサマーディ」と呼ばれる。輪廻転生を産む種が残っているサマーディ。
2. アサムプラグニャータ。解脱を与えるサマーディ。「種無しのサマーディ」と呼ばれる。輪廻転生を産む種がなくなるサマーディ。

■瞑想及びサムプラグニャータ・サマーディ(Samprajnatah Samadhih) 各種
この段階ではまだ、印象(サムスカーラ, サンスカーラ, 行)は残っており、心が完全には浄化されていない。

1. サヴィタルカ瞑想。ヴィタルカは「問い」、サヴィタルカは「問いを持って」と言う意味。力を得ても解脱は得られない。快楽を追求する世俗的な、虚しく無駄なサマーディ(Samadhih)。古い教訓。ジャブダ(ことば)とアルタ(客体、音の意味)とジュニャーナ(知)が同時に起こる。
ニルヴィタルカ瞑想。「問いのない」と言う意味。要素を時間と空間の外に出し、あるがままを想う瞑想。ジャブダ(ことば)とアルタ(客体、音の意味)は存在せず、ジュニャーナ(知)だけがある。
2. サビチャーラ瞑想。「識別を持って」と言う意味。時間と認識の中にあるものとして想う瞑想。
ニルヴィチャーラ瞑想。「識別をしない」と言う意味。サビチャーラの発展系。時間と空間を除き、あるがままの精妙な要素を想う瞑想。
これら2つは、前の段階であるサヴィタルカ瞑想とニルヴィタルカ瞑想の対象を精微なもの(タンマートラ=微粒子、チッタ、自我)に変えたもの。
ニルヴィチャーラ瞑想が純粋と結びつくと、真理によって満たされた叡智(リタムバラー・プラジュニャー、Ritambhara Prajna)を得る。この段階に達した人のことを悟りを開いた聖者・解脱者(ジーヴァンムクタ、ジーヴァントは生ける者、ムクタは解放された、の意味)と呼ぶ。
3. サーナンダ・サマーディ。至福に満ちたサマーディ。活動性及び惰性を取り除いた状態で行われる瞑想。
4. サースミター・サマーディ。「肉体を失った」と思うことができる状態。この状態で自然に融合する魂はプラクリティヤラと呼ばれるが、まだ解脱ではない。

■解脱を与えるアサンプラグニャータ・サマーディのための瞑想
思いが入るやいなや思いを取り除き、いかなる思いが心に入ることも許さず、心を真空状態にする。心に対する最大の支配力を示す。
(間違った瞑想は、心をタマスで覆うこと。タマスは無知であり、心を不活発にすることで心を空っぽにしていると勘違いすることのないように。)

アサンプラグニャータ以前の瞑想では、集中によってチッタのヴリッティ(想いの波,Vrttis)を押さえつけている状態。
一方、アサンプラグニャータになるとチッタのヴリッティ(想いの波,Vrttis)を作り出す「種」がなくなる。「種無しになる」と言われる。無限とも思える輪廻転生を生み出す種子がなくなる。


■種あり、種なしのサマーディ、という分類
サビージャ・サマーディ  種のあるサマーディ。サムプラグニャータ・サマーディ(Samprajnatah Samadhih)、サヴィカルパ・サマーディ
ニルビージャ(Nirbijah)・サマーディ  種のないサマーディ。アサンプラグニャータ・サマーディ、ニルヴィカルパ・サマーディ

■サムヤマ(Samyamah, サンヤマ)
集中(ダーラナ, Dharana)、瞑想(ディャーナ、Dhyanam)、サマーディ(Samadhih)の3つが同時に達成されるとサムヤマ(Samyamah, サンヤマ)と呼ぶ。サムヤマ(Samyamah, サンヤマ)によってシッディ(霊能)が生まれる。対象または対象となる観念の奥深くへと突き進むとその対象はその秘密を解き放つ。

■ダルマメガー(Dharma Meghah)・サマーディ(法の雲のサマーディ)
ダルマメガー(Dharma Meghah):全ての美質がそこにある、と言う意味。
「高まりたい」と言う欲望さえ消えた時に起こるサマーディ。
神を求める気持ちが「無欲」によって達成される。ある時点までは努力を続けるが、ここに来ると努力がなくなって無努力になる。そして神を知る。ジーヴァンムクタ(聖者・解脱者)が現れる。
全ての苦悩(煩悩)とカルマ(業)は終息する。

■ニルビージャ(Nirbijah)・サマーディ
「インテグラル・ヨーガ」(スワミ・サッチダーナンダ著)ではこれがジーヴァンムクタ(悟りを開いた聖者・解脱者)の後に来るものとして最高のサマーディとしており、アサンプラグニャータ・サマーディはさらりと述べているのみ。
一方、「ラージャ・ヨーガ」 (スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著) ではこれは一般的な最終状態としての説明の留めている印象。ぼかして書いてあり、これが最高とは明示しておらず、前の方でアサンプラグニャータ・サマーディを最終的に解脱をもたらすとして紹介してある。
よって、ニルビージャ(Nirbijah)・サマーディとアサンプラグニャータ・サマーディおよびサーナンダ・サマーディやサースミター・サマーディとの関係も不明確。

■カルマ・アーシャ(カルマの袋)
過去世も含めて、全てのカルマが蓄えられている。

■カルマの3つの種類
・プラーラブダ・カルマ(生存のカルマ)
 現世において経験されるべくカルマ・アーシャ(カルマの袋)から取り出されたカルマ。このカルマに基づいて体を選ぶ。
 予期できなかった出来事の理由。偶然石にぶつかって怪我をする、等
・サンジタ・カルマ
 過去のカルマも含めた全ての合計
・アガーミー・カルマ
 新たなカルマ。わかっていて意図的に行ったもの。意図的に石を蹴ってつま先を怪我する、など。
 ジーヴァンムクタ(聖者・解脱者)はアガーミー・カルマの影響を受けない。

■神
ほとんど完成されたが全ての力を捨てることができずに失敗した多くの魂を「神」と呼ぶ。
そこを越えて絶対的な唯一神は存在しないとするのがサーンキャ哲学。ヨーギの中には絶対神がいるとする人たちもいますが、その場合でも、上記のような失敗した多くの魂を神と呼ぶ点に関しては同様。
神々の地位や、時の周期の支配者の地位をも望まない魂は解脱を遂げる。

■至高の支配者
イーシュワラ(Isvarah, 至高の支配者)は特別のプルシャ(魂)であり、無限の知識を持っている。ヴェーダによれば宇宙の創造者。
ただし、ヨーギたちにとってのイーシュワラ(Isvarah)は宇宙の創造者ではなく、全知全能の無限の知識を神と呼んでいる。

■悟り
「悟り」が真の宗教であって、他の全ては準備にすぎない。
説法を聞いたり、書物を読んだり、論理を辿ったりするのは基礎の準備をしているだけで、宗教ではない。

■エゴイズム
エゴイズムとは、見る道具を見る者だと思うこと。「無知」の状態。
見るものはプルシャ(魂)、見る道具は心(チッタ,Citta)や感覚器官(インドリヤ(ス))。
心(チッタ,Citta)や感覚器官(インドリヤ(ス))が自分だと勘違いするところにエゴイズムが生まれる。
誰もプルシャ(魂)に苦痛を与えることはできない。プルシャ(魂)は心(チッタ,Citta)の理解を越えており、心(チッタ,Citta)が哀しもうが喜ぼうが、変わらずそこにいる。しかし、無知によって我々は自分が心(チッタ,Citta)だと思い、「自分は快楽・苦痛を感じる」と勘違いする。

■議論と結論
・議論がましいもの(ワーダ, Vada)
・決定的なもの(シッダーンタ, Siddhanta)
最初は議論(ワーダ, Vada)から入る。しかし結論に達した後はシッダーンタ(Siddhanta)に入り、それを強化する。ヨーギは議論の段階を通り過ぎている。ヨーギは心(チッタ,Citta)を超えたものを欲するので議論(ワーダ, Vada)はしない。

■印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)の分解・制御
ヴリッティ(想いの波,Vrttis)が消えた後に残るのは印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)。印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)は心(チッタ,Citta)の中に眠っている。印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)は根であり原因。印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)も完全に分解し、制御する必要がある。
心(チッタ,Citta)やヴリッティ(想いの波,Vrttis)の認識は比較的容易い。しかし、印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)は深く眠っており、潜在意識として下の方で働いている。
ヴリッティ(想いの波,Vrttis)が粗大に現れる前に、微かな原因であるうちに根元を制御することで種子となる印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)まで制御し、焼き尽くすことができる。
精妙な印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)は瞑想によって焼き尽くすことはできない。印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)はその原因に分解し、原因であるところのアスミター(asmita)/エゴイズムに分解すると、印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)はそれらと一緒になくなる。

まず、印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)について瞑想することによって表面に浮かび上がらせる。そこで、行為として発現させるべきかどうか判断できる(もちろん、行為にまで発展させないことを選ぶだろう)。次に、瞑想を続けてその原因にまで遡るとアスミター(asmita)/エゴイズムが横たわっていることがわかる。そこで心をより高いサマーディの中へ超越させるとそのアスミター(asmita)/エゴイズムがなくなる。アスミター(asmita)/エゴイズムがなくなれば、その中にある全ての印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)も一緒になくなる。

■精妙な微粒子タンマートラ(ス)
我々の心が日々、放出している。人々が神を礼拝する場所は良いタンマートラスに満ちている。

■グナ(性質, Guna = サットヴァ/ラジャス/タマス, sattva/tamas/rajas)の4つの段階(parvani)
・「定義のあるもの(visesa)」我々が感覚で捉えられる粗大な要素
・「定義を持たないもの(avisesa)」タンマートラ(ス)。
・「暗示だけされているもの(linga-matra)」ブッディ(決定する能力、Buddhi、知力、覚)。自然の最初の現れ。
・「しるしのないもの(alingani)」

■プルシャ(魂)
全知、全能、偏在。心ではない。物質でもない。自然でもないから変化することもない。

■プラクリティ
この世を構成する基本物質。純粋な精神原理のプルシャに対する物質原理のプラクリティ。
プルシャは「見る者」である一方、プルシャ以外の全てはプラクリティであり、「見られるもの」。

■プルシャの類義語
サーンキャ哲学ではプルシャという単語を用いますが、ヴェーダンタではブラフマンとアートマンという言葉が出てくる。
・サーンキャ哲学:プルシャは個別の人の中にも存在するし、同時に遍在する魂。イーシュワラ(Isvarah, 至高の支配者)もプルシャの1つ。
・ヴェーダンタ:ブラフマンは遍在する絶対的存在。アートマンは個別の魂。しかしヴェーダンタでは最終的にブラフマンとアートマンは同一であることを導く。
ということで、言葉は違うけれども似たようなことを説明しているようです。

■チッタ(Citta, 心)とプルシャ(魂)
チッタ(Citta, 心)は主体として外界を見る。或いは、客体としてプルシャ(魂)に見られる。
プルシャ(魂)は常に主体。
「自分」とは、ある意味では目撃者であり、ある意味では行為者とも言えるが、本当は目撃者。”本当”を見失っていると貴方は行為者になる。

■ヨーガの修練とチッタ(Citta, 心)
ヨーガの修練は「チッタ(Citta, 心)」によって行われる。プルシャ(魂)はヨーガの修練を必要としない。プルシャ(魂)は放っておけば良い。ヨーガの修練を必要としているのはエゴ(自我)である自分。教えが与えられるのもエゴ(自我)である自分。
より低い自分であるチッタ(Citta, 心)をエゴの行動から解き放てばプルシャ(魂)の輝きが増して「くつろぐ」ことができる。
寛ぎが増せば、チッタ(Citta, 心)が動いていない時はもちろん、チッタ(Citta, 心)が動いている時ですらヨーギはくつろぐことができる。ヨーギは行動を「楽しむ」。
聖典は、単なる知識理解のためのもの。エゴのための真理は、身近な生活にこそある。無私であることを学び、献身的な生活を送ること。行動は他者のために行うことでチッタ(Citta, 心)は平穏を得る。

■ジーヴァンムクタ(聖者・解脱者)とグナ(性質, Guna = サットヴァ/ラジャス/タマス, sattva/tamas/rajas)
ジーヴァンムクタ(聖者・解脱者)になると、グナは目的を終えてその働きを辞める。
それまで、グナの目的はプルシャに経験を与えることであった。その目的がなくなり、グナは元々のプラクリティに戻る。グナとして発現していない時はグナはプラクリティのまま。プラクリティが発現するとそれをグナと呼ぶ。その発現が終わると、プラクリティはプラクリティのまま安住する。完全に浄化されて「純然たる意識の力が、自らの純粋な本性の内に安住する」。

ここに、パタンジャリが最初に述べたヨーガの目的は達成される。「チッタ(Chitta)・ヴィリッティ(Vritti)・ニローダ(Nirodhah)」が修練であり、スワルーパ(Svarupe)・ヴァスターナ(Vasthanam)が経験されること。

「心(チッタ、Citta)の作用(働き、諸状態)を止滅することがヨーガ」(Yogaヨーガ・Chittaチッタ・Vrittiヴィリッティ・Nirodhahニローダ)
「そのとき、見る者はそれ本来の状態に留まる」(Tadaタダ・Drashtuhドラシュトゥ・Svarupeスワルーパ・Vasthanamヴァスターナ)


以上、
「ラージャ・ヨーガ」 (スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著)
「インテグラル・ヨーガ」(スワミ・サッチダーナンダ著)
より