ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は宗教でした[千葉で受講]

2018-08-02
トピック: スピリチュアル



そもそも原始仏教ですから宗教そのものですよね。何故に無宗教を名乗っているのか疑問ですが、最近の新宗教はそんなものでしょう。

ここには信仰と教義があって、異論を許さないので実質は宗教だと判断しました。
瞑想手法それ自体はアリだと思いましたが、ここに信頼できる指導者はいませんでしたので宗教としても微妙です。

私は色々と気付くところがあって面白かったのですが、多くの参加者が混乱してメンタルをやられていましたので、瞑想初心者がいきなりこんな長い瞑想をすべきではないと強く思いました。初心者が長い瞑想を行うと不快な思いが心を支配して混乱をきたすためとても危険です。怒りの沸点が下がってしまって日常生活に支障をきたすかもしれません。一番の問題点は、ここに信頼できる指導者がいないことです。混乱した人を適切に処置せず、処置する意思もなくスルーする方針のようですので、特に初心者はいきなりここで長い瞑想をやらない方が良いと思います。心に混乱をきたしている方に対する運営側のケアは皆無でしたので、知人に聞かれたとしても私がここを勧めることはないでしょう。

各種の問題はきちんとした瞑想指導者、グルの存在がいれば適切に方向修正できるものだと思いましたが、信頼できる指導者がいなかったのが何よりも問題だと思いました。

長い瞑想を初心者にさせるべきではないとつくづく思いました。瞑想に興味があるなら近所の信頼できる瞑想指導者に定期的に指導を受けるのが良いと思います。瞑想初心者がここに行く意味はあまりないと思いました。ここには、瞑想や精神世界につきものの各種の落とし穴にハマっている人が多く見受けられました。

精神世界の初心者によくあることですが、自分のやっている精神修行、例えばこのゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想について特権意識を育ててしまっている人も見受けられました。その特権意識も精神的な混乱の1つで、特権意識やら何やらにしがみつかないと心の平静を保てないのでしょう。であれば、それは「瞑想できていない」ということになるのですが、そのような指導をきちんとしてくれる感じではありませんでした。

他のヴィパッサナー瞑想も色々ありますし、指導者がきちんとしているところに定期的に通うのがいいと思いました。その後で、そのグルがここを勧めるならやってみてもいいかもしれませんが、いきなり初心者がこんな長い瞑想を受けたら混乱をきたすか特権意識を持つか、何がしかおかしくなる可能性があります。

無宗教を謳っていますが、それは表面上のことで、実際のところは原始仏教を基本にしておりますのでまさに宗教そのものです。
ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は上座部仏教(小乗仏教)ですので大乗仏教と違って勧誘はほとんどありません。勧誘がないから宗教ではないと思っている人もいらっしゃるようですが、宗教かどうかはそんなところで決まるわけではありません。

ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は原始仏教なので「神」の概念が希薄なだけで実際のところ宗教であり、いわば「神の概念がない宗教」だと思いました。神を拝めていないから宗教ではないと言う理解は正しくはありません。原始仏教では神を拝めるのではなく自分自身が悟りを開くために修行するのでありますから、それは宗教なのではないでしょうか。方針なり教義なりに帰依するところがあるのでここは宗教です。ここが宗教ではないとしたら仏教も宗教ではなくなります。

無宗教を装っていますが、それは単に方便に過ぎませんね。ちゃんと宗教の教義が存在しますし、教義ですから議論など受け付けずに一方的に押し付けますし、他の瞑想などの他の精神修行をしている人を歓迎しないところはそんじょそこらの宗教よりもよほど宗教です。心理学など、宗教以外の学問の分野であれば「何故」の質問について徹底的に答えてくれますが、ここは質問をしても質問を遮って一方的に「そんなことより、指示されたことだけをしていれば良い」と圧迫してくるので、とても宗教的です。ここが宗教なら宗教でもいいので、最初から無宗教なんて言わずに宗教だと言えば良いのです。無宗教なんていうから変なことになるのです。

ただのセミナーに見せかけていますし、上座部仏教(小乗仏教)ですので勧誘はないですが、思想は宗教なのです。大乗仏教でしたら他人を助けることが自分を助けることに繋がるので勧誘がありますが、上座部仏教(小乗仏教)は他人を助ける前に自分が悟らないと助けられないという思想ですので勧誘は基本的にないわけです。でも、手段が違うだけでどちらも宗教ですよね。特に戦後は、宗教法人なのに宗教ではないと主張する団体もあったり、宗教ではない団体なのに宗教っぽい団体がいたりしますよね。ここが無宗教だなんて信じ込むのは世間知らずか、自分が信ずる宗教が他にあるので方便をわかっていつつもその理屈に乗っかって受講する人か、宗教嫌いかだと思いますよ。でも、他の信仰をここの人に明かしたらいい顔されないでしょうけどね。だって宗教ですから。明確に、他の瞑想をしている人は拒否する方針が書かれてありますし、実際に話をした際もそうでした。「他の瞑想」と書かれてありますが、自分たちが宗教を名乗っていないから「他の宗教」と言えないだけで、実質的には「他の宗教や他の瞑想は拒否します」と言うことだと理解すればいいと思います。ですから、排他的なところもしっかり宗教なのです。そんじょそこらの宗教よりもよほど宗教していますよ。これは、ある意味、褒め言葉です。堂々と宗教を名乗ったら良いと思いますよ。新規受講を考えている方は、ここが宗教だと思っていた方がいいと思いますよ。やっている本人たちは激しく否定するでしょうけど、それをあえて聞くのは野暮というものです。


<以下、細かく記載しますが、とても長いです>


■予習
ゴエンカ式ヴィパッサナー (Vipassana) 瞑想 受けることにしたのでまずは予習です。

昔、私がインドのダラムサラに旅行した時に偶然に瞑想センターの前を通りかかり、その時は何なのかよくわからなかったのだが閉ざされた門から奥を覗き見た時のとてつもないオーラに圧倒されて、「よく分からないが、ここは凄いところだ」と思って後ほど調べてみたらそれがヴィパッサナーの瞑想センターだったのです。

本当はそこで受けようかと思っていたのですが最初の説明は日本語で聞いた上で疑問点も日本語でクリアにして正しいやり方を知った方がいいなということでまずは日本で受けることにしました。ダラムサラであれば日本語の音声テープが聞けるという話だったので一通りの説明は日本語でわかりそうでしたし、時期が合えば日本人のスタッフも常駐しているという噂のダラムサラでしたが、スタッフ事情に詳しい友人がいるわけでもなく、であれば、必ず日本人がいるとも限らないので、まずは日本で受けてみようと思ったわけです。英語は普通に話せるので英語で受けても良かったのですが、この種の専門用語の説明を英語で聞いてどこまで理解できるか微妙だったのです。

結局、日本で色々と本を読んで予習したので今となってはインドで受けても良かったかなという感じではあるのですが、ダラムサラはまたの機会があれば受ければいいので、とりあえず日本で受けます。

ヴィパッサナーに関する説明などは色々と本やWebがあるのでそれを見てもらうとして、いくつかメモ的にだけ書きます。

*** 予習です。まだ受けていませんので間違っているかもしれません。 ***

■瞑想の種類
大分類としてサマタ瞑想(集中の瞑想)とヴィパッサナー瞑想(観察、気づきの瞑想)があります。

サマタ瞑想:集中型の瞑想。瞑想の対象に意識を集中して対象と合一させる。主体と客体が融合した意識の状態がサマーディ。
ヴィパッサナー:狭義では、気付き(サティ)による瞑想。広義では、サティやサマタ瞑想及び道徳など広範囲の事柄を含む。

■最初の3日
息に意識を集中する。本によっては「鼻腔に意識を集中する」と書いてあるが、意識の集中よりも息に意識を集中することが本質のようです。

「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」を予習で読んだら「鼻腔に意識を集中する」と理解したのですが、バンテ・H・グナラタナ著の「マインドフルネス」を読んだら、本質は息を観察することのようです。後者の著書「マインドフルネス」の説明はとても分かりやすくて本質が書かれてあるように思えました。

この最初の3日間は、基本的な集中(サマタ)を育てるためのもの。ヴィパッサナーに入るための準備期間。

■4日目以降
段階を追ってヴィパッサナーを実習してゆく。指導者の指示に従って進めるとのこと。本には詳しく書いていないが、意識を体の各所に当てたりするらしい。

■最終日
期間中にヴィパッサナーのほんの一部でも垣間見ることができればラッキーで、何も意識が変わらずに終わる人もいるようですが、それでも、やり遂げれば何がしかの変化はある筈だそうです。

■ゴエンカ式のヴィパッサナー
ヴィパッサナーにも流派があるようなのですが、有名なのはゴエンカ式。

■ヨガとヴィパッサナー
ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想はヨガの瞑想と相入れないようです。
ただし、ヨガの体操の部分とヴィパッサナー瞑想は一緒に行っても良いとのことです。

これはちょっと微妙なところです。

ゴエンカ式のヴィパッサナーをしている団体の主張として相入れないと言っているのです。
一方、ヨガの方からすれば、人に合う瞑想は色々あるのですから、好きなものをすれば良いというのが基本にあって、ヨガ式をするのであればマントラとかそれをすべき、という、かなり懐の広い解釈です。

■[受講前にまとめた] 現在までの私
今から約2年前にヨガを始めたのですが、ヨガを始めてから瞑想も始めました。ヨガは段階を追ってサマーディを目指すので、とても理論的です。とは言いましても、しばらくは瞑想も「こんな感じなのかな? 」と、腑に落ちない感じでやっていました。ヨガを始めてから約1年、ヨーガスートラなど書物を漁ったり、センターで瞑想したりしていたらちょっとしたレベルアップがあって、ある時、思考を「止める」と言ったら正しいのか微妙なところですが、「意識が呼吸だけに向いていて考え事がない状態での至福」を感じられるようになり、それを境にして、瞑想がとてつもなく楽しくなってゆきました。

瞑想を始める前、あるいは最初は、心が勝手にお喋りして止まらない状態が普通です。呼吸に意識を向けなさい、と言われても、それが最初は出来ているかどうか見分けがつかないことが多いです。そんな時の状態は、だいたい2種類に分けられます。1つ目は「呼吸を観察しているぞ」と心の中でお喋りをして観察している気になっている状態。これは観察できていないです。もう1つの状態は、呼吸を絶え間無く観察し続けて、一瞬一瞬の呼吸の感覚が絶え間無く認識できて、その間中ずっと『心のお喋りをしない』状態を保てているのであれば、観察できています。

前者の状態は、割と昔から瞑想で「できていない例」で言い伝えられていることです。心が自己主張し始めて「私は呼吸を観察できている」「瞑想できている」と言い出すのです。心(エゴ, マインド)が自己主張して「私はできている」と言い出すのです。本当に観察できているのであれば、そのような心の動きすらも見つめて、そのまま受け流すことができるようになるわけです。観察できているのであれば、心の動きに惑わされない「静けさ」の雰囲気がその人から漂ってきます。人によっては、その静けさから「高貴な匂い」を漂わせることもあります。これは全て感覚的なものですが、その絶対的な認識は、明らかに「違い」として現れます。最終的な悟りに達していなくても、観察があまりできない人と、それなりにできる人とは、やはり雰囲気が違うものだと思います。これは、オーラの違いとしても現れます。オーラは一次的な感情の乱れによっても変わりますから、オーラがそのまま意識のレベルにはならないのですが、ある程度の判別にはなります。観察できていない人のオーラは大抵濁っていますが、観察できている人のオーラは基本的に綺麗で、日々の生活で時々汚れますがすぐに綺麗な状態に戻ります。

昔から、私は瞑想とは関係なしにサマーディをしていたのですが、最近になるまでそれがサマーディだったのだとは知りませんでした。サマーディとはどのような状態なのかずっと分からずにいたのですが、ヨーガスートラに書かれた段階を追って瞑想をするにつれ、サマーディ自体は昔から度々経験していたことを知ったのです。とは言いましても、サマーディにも多くの種類があり、私が何かに打ち込む時に現れるサマーディ、主体と客体が一体化するような種類のサマーディは割と低い段階のサマーディであることも知りました。それはそれである程度(とは言ってもかなりの)至福ではあるのですが、それだけではとても「悟り」などと言えるような種類のものではありません。仏教でもサマーディは段階に分かれています。

又、ヨガを始めて少し経った頃から「ナーダ音」が聞こえるようになりました。これは、ある程度の浄化が進んだ「しるし」とされています。(詳しくはこちらを参照

クンダリニーに関しては上がっていないものの、俗に「まどろみ型クンダリーニ」と言われるような小さな小さなクンダリーニ経験はしたことがあります。ムーラダーラ・チャクラ(会陰)に電気ショックが走って、その後、アジナ・チャクラ(眉間のサードアイ)に抜けて小さくボンッと爆発するようにしてエネルギーが抜けたことはありますが、噂に聞くような本格的なクンダリーニ経験という訳でもなかったですね。今年の1月6日のことです。クンダリーニは1回で大爆発を起こして上がる場合と少しづつ何度も上がる場合とがあるようなので、後者だとすれば最初の1回目としてはこんなものかもしれません。かと言って、特別何かが変わった訳でもないのですが。今のところ。おそらくはクンダリーニそのものが上がったと言うよりも殻が割れて準備が整ってきた、と言うくらいのものだったと思います。あるいは、(クンダリーニそのものではなく)クンダリーニのシャクティ(性力)が上がったと言う解釈もできますが、そのあたりの明確な判断はできません。

今までそれと認識することはなかったですが、生活の中で「集中」という意味でのサマーディは数多く経験していたように思います。ただし、そのサマーディは、サマーディ中は至福になるものの、サマーディを終えてしまうと元に戻る、という一時的なものでした。
20年以上前から、例えば自転車で旅行している時にたまに訪れる至福の状態ですとか、プログラミングを組んでいる時にロジックと一体になることによるサマーディ。などなど。20年前の私は、言葉として「サマーディ」とは言わないものの、似たような状態を求めていました。
サマーディの体験はカタストロフィに似たものがあって、通常の状態とのギャップが大きければ大きいほど至福が大きくなる、という種類のものでした。ですから、元々ストレスが多かった私にとってサマーディ状態はとてつもない至福だったわけですが、歳をとるにつれ、通常の状態が落ち着いてくるとサマーディ体験は割と軽いものになってゆきました。サマーディ体験を連ねるにつれて、至福の状態に対して違和感も感じるようになってゆきました。このサマーディが永続的になるのかどうかという点に関しても疑問でしたし、サマーディ状態そのものに対しても、外界からの刺激にとても弱いサマーディの状態でしたので24時間続けるには不向きだったのです。サマーディ状態はちょっとした外乱や敵対的勢力の意思で簡単に崩されるだけでなく、驚かされたりすると心身の奥底までとてつもない傷を負いますから、仕事場や外で行うのは危険なことだと思うようになりました。アメリカのように個室ならばいいのですが、日本だと集中している時に意識に邪魔が入ると心にとつてもないダメージを負います。実際に深いダメージも受けたことも多々あります。日本の職場は意識の集中状態に対する認識が薄くて、むしろ、相手を驚かせるほどの元気さが逆に評価されるような「集中できない」「サマーディには危険な環境」の職場や日常生活で無理やりサマーディを追い求めていた訳です。10年くらい前からは、「このままでは危ないと」いう認識に至りましたので色々と環境を変えたり、職場を離れて個人活動することで精神的な安定を取り戻してゆきました。サマーディは、集中力を使って無理矢理に一体状態を作り出しますので、その状態においてはとても能力が高まって、例えばプログラミング等の能力が飛躍的に高まりますが、それは非常に脆いものであるわけです。最近はそれを「ゾーン」状態とも言うのかもしれません。その頃は、自宅あるいは安心できる環境以外ではサマーディ状態にはならないようにしていました。とは言いましても、多くサマーディを体験していると、普段の状態にもそのサマーディが浸透してくるようで、それほど能力低下もなく普段の活動はこなせましたが、やはり集中して結果を出すにはサマーディの方が良いようです。

というわけで、こんな状態で、ヴィパッサナー (Vipassana)瞑想 受けてきます。さて、どうなりますか。



■受講しました

ヴィパッサナー瞑想合宿終了。11泊12日。
毎日色々な発見があって一人で面白がっていました。

<以下は個人的な勝手な感想です>

■面白かった点

  • アーナパーナ瞑想は、集中を養うための瞑想という説明だったが、実際には、ヨガでいうところのナディ、気功で言うところの気脈を開く瞑想なのかな? と感じた。
  • アーナパーナ瞑想で主要ナディであるイダとピンガラが実在することを鼻からマニプラ・チャクラ(臍のあたりにあるソーラープレクサス・チャクラ)まで始めて実感。
  • アーナパーナ瞑想で主要ナディであるスシュムナ(背骨に沿って存在)が鼻からアジナ・チャクラ(眉間のサードアイ・チャクラ)、ヴィシュッダ・チャクラ(喉のスロート・チャクラ)、アナハタ・チャクラ(胸のハート・チャクラ)くらいまで通じている感覚があった。
  • 意識を当てて緩めるというヨガ手法に通じるものがあった。
  • 長く座っていられるようになった。股間が開いてきた。背筋が真っ直ぐになってきた。
  • ヴィパッサナー瞑想は浄化の為の瞑想という説明だったが、それよりも、体内エネルギーのワークのような感じがした。体内エネルギーを感じたり動かしたりして、詰まりを取り除くことで結果として浄化が起こるのかなと。
  • 4日目くらいから森の景色が変わってきた。最初は森を見ても狭い範囲しか見えていなかったのが広範囲を同時に見れるようになり、風に揺れる葉の動きが視界全体でそれぞれ動いているさまを俯瞰すると、まるでアメリカ国立公園の美しい風景を見ているようで、千葉の単なる田舎であっても「この世界、自然はなんて美しいのだ」と感じることができた。同じ景色を初日はありふれた日本の田舎だと思っていたので、見方一つで随分と変わるものだなと思った。そういえば似たようなことを南米旅行中に感じたかもしれないことを思い出した。日本にいても見方一つで世界は美しくなるのだなと改めて思いました。視界があまりにもはっきりしてきたため、視界上部を遮っているまつ毛が微妙に視界の邪魔になってきて、まつ毛を切ってしまおうかとも思ってしまったくらいでした。
■席の割り当てについて

  • 席が狭いので近くにエネルギーヴァンパイアがいたらかなり疲れる筈。今回はいなかったけれども、運が悪いと消耗しそう。と言うのも、席は最初に一方的に指定されてしまって固定なので。
■瞑想方法の指導者(先生)はいるけど精神的グル(導師)はいない

  • 指導者はいるけどグルがいないから皆が勝手にやっているという感じ。指導者はいて、決められたやり方を守るように指導はするけれども、個人ごとの状態を見るわけではなさそうなので、私はちょっと微妙に思った。グルであれば個人の状態を見て適切な指示を下す筈。
  • 指導者はグルではないです。私が指導者に対して質問をして回答を得た後、確認のため「私はこんな感じの経験をしました。まず最初に...」と説明しようとしたら言葉を遮られ、「そんなことはするな。試すな。言われたことだけをやれ」と一方的に言われて、自分のことを説明する感じではなかった。一段上に座っているところから話しかけられるので、話を聞いてもらうという感じではない。この一方的な感じは弟子に寄り添うグルではなく、単にやり方を教えつける「教師」でしかない。
  • 指導者は外国人。何となくホームシックっぽい? ある程度の真理を得ていると言う感じでもなく、海外にいるそこらのおっちゃん。オーラもあまり感じない。よくいる教師という感じ。
  • 指導者に質問をした時、鼻でフッと笑って見下している感じが伝わってきて微妙だった。瞑想指導者と言えばそれなりに高い瞑想の境地にあって静寂の極致にあるのかなと勝手な想像をしていたのですが、実際には、瞑想初心者(スピリチュアル初心者)にありがちな特権意識が育ってしまっている感じでした。瞑想でその特権意識を無理やり抑えているけれども指導をする時は顕在意識が出てくるのでエゴが見え隠れするのかなあ、という気もしました。グル(精神的指導者)というよりも、テクニカルな瞑想手法を教えてくれる教師と思った方が良さそう。
■アーナパーナ瞑想が軽視されている印象

  • アーナパーナ瞑想からヴィパッサナー瞑想に移行するタイミングは人それぞれ違う筈で、それをグルが見極めると本当は良さそう。指導者はいるけどグルはいない。人によっては何年もアーナパーナ瞑想でもいい筈。全然集中できなかったと落ち込んでいる人がいました。
  • アーナパーナ瞑想はここでは割と軽視されているような印象ですが、実際のところ、かなり奥深いと思いますよ。
■イダとピンガラおよびスシュムナの感覚

イダとピンガラはヨガで言うナディ(エネルギーの通り道、気道)で、スシュムナ(背骨に沿って存在)の周囲をぐるぐる回って存在しています。この3つのナディが主要なものです。一番重要なナディがスシュムナ、次にイダとピンガラです。

  • 書籍によってイダとピンガラの経路は微妙に違いがあるのでどれが正解なのかよく分からなかったのですが、今回感じた自分の実感と照らし合わせてきっとこれだ、と言う感覚を掴むことができました。
  • スシュムナも今まであまり感じることはなかったのですが今回は少し感じました。
■本来はサマーディを極めた後に行う瞑想

  • ブッダの瞑想。本来は集中のサマーディを極めてからやる瞑想だがそれ以前にしてしまってもそれなりの効果はありそうですが、あまりにも早すぎると魂の密度が薄くなって空っぽになってしまいそう。何故そう思ったのかと言うと、ヴィパッサナ受講者やスタッフの、特に女性を見ていてそんな気がしたから。存在が薄い感じがします。ヴィパッサナー瞑想は本来は、奥底に最後に残ったサンスカーラ(カルマの種)を浮かび上がらせる瞑想なのでしょう。95%浄化されている人が残りの5%を浄化するために奥深くのサンスカーラ(カルマの種)を浮かび上がらせるのでしょう。でも、50%浄化されている人が残りの50%を浄化しようとしたら空っぽになり兼ねません。後者であればヴィパッサナーの前にアーナパーナ瞑想なり何なりで浄化をまずすべきなのかなと。オーラ的に説明すると、まずは自分のオーラをしっかりと中心に集めて安定させてからでないと次のステップに進むべきではないと思います。精神やオーラの安定がアーナパーナ瞑想で、それだけをすべき段階の人が先走って次の段階であるヴィパッサナー瞑想をするから空っぽになるのかな、と。 とは言いましても、勝手に私がそう思っただけですけどね。行うべき瞑想を見極められるグルがいれば素晴らしいのに、グルがいないのが残念なところ。他のヴィパッサナーはどうなのかな。ゴエンカ式ではないヴィパッサナーもあるので。
■他瞑想をしている人に対する態度

  • 他の瞑想をしている人はあんまりウェルカムじゃないのは噂通り。
  • ヨガをしたら聞こえるようになったナーダ音について聞こうと思っていたのですが、指導者に他の質問をした際にヴィパッサナー以外を聞ける雰囲気でなかったので結局聞かなかった。コースマネージャーにも聞こうとしたが、前置きとしてヨガ瞑想していると言ったら一方的に話を遮って話し始めて、ヨガ瞑想してるならそれをすれば良くて、両方するのは良くないですよ、と言われて一方的に壁を作られたのでこのような特殊なことを聞く感じではなかった。
  • ゴエンカ式のヴィパッサナーは他の瞑想をしている人を拒絶しますが、どうやらテーラワーダ式のヴィパッサナーやキリスト教的ヴィパッサナーはそうでもないっぽいです。
  • 私は、「手法」としては他の瞑想と組み合わせることは基本的に問題ないと感じましたが、それよりも、この宗教団体モドキの「教義」によって禁止されているのだと理解しました。宗教団体モドキですから、教祖モドキが禁止と言えば禁止なわけです。
  • ゴエンカ式ヴィパッサナーやっている人は指導者をグルとは言わないみたいですが、グルっぽいゴエンカ氏あるいはグルっぽい人に従うのなら、それはそれで良いでしょう。それも一つの選択です。でも、ゴエンカ自身が「自分はグルではない」と言っているようだから受講者自身がグルを頼ることができなくなり、理屈を自分でこねなくてはならなくなり、自分で他の瞑想がダメな理由を言わなくてはならず、それ故に、ドツボにハマっているような気がします。受講者は、それがわかるレベルにはそうそう達しないでしょう。グルであれば「グルがそう言っている。私はグルを信頼している」で終わりなのに、変に理屈をつけてドツボにハマる。だからヒステリーになる。グルグルと回ってしまうわけです。ゴエンカ氏も罪作りですね。
  • 上に書きましたように、ヴィパッサナー瞑想をすることで自然がとても美しく見えてワクワクしている気分で最終日を迎えたのにも関わらず、コースマネージャーにちょっとヨガ瞑想のことをたったの「1分」質問しただけで簡単に半ギレされて軽く怒鳴られて、それは私にとって予想外のことだったのでハートに防御が入っていなくてかなり神経がやられてしまった。1分でキレるなんておかしいでしょ。よって、その半ギレによって「自然がとても美しく見えてワクワクする気分」がどこかに吹き飛んでしまい、コースマネージャの半ギレをそのまま受け取ってしまったオーラが最終日は私の中に少し残ってしまった。よって、私と話した他の人もそのどす黒いマネージャーのオーラを間接的に受け取ってしまっていたかもしれない。他の精神ワークをしてはいけないと言う禁止事項があったので通常であればこんな時にするような浄化などをすることができず、仕方なく期間中に教わったことで対処しようとしたが、それだと半ギレされて受け取った黒いオーラを完全に浄化するには至らなかった。やれやれだ... 勘弁してくれ。ゴエンカ師はよく怒鳴っていたというので、おそらくゴエンカ式は怒鳴るのが許されているのでしょう。それが最初からわかっていればそもそもここに行かなかったかもしれないのに。怒鳴ることが正当化されているような団体はロクでもないです。
  • 私の昔からの知り合いで、京都のセンターが出来る以前から瞑想していて、建設のために寄付したような人であっても同様のことを言われて足が離れたと聞いていましたので、千葉と京都とどちらも同じ方針のようです。ゴエンカ氏が明確にそう言っていますし、規約でも「他の瞑想をしている人は奉仕者として参加できない」と言っています。その、私が話を聞いた、他の瞑想をしている人は、「今回は参加しても良いですが、どちらか片方の瞑想だけにして下さい。何があっても責任を取れません」と言われたのだとか。次回はマネージャ次第で参加を断られる可能性を示唆しているっぽい感じだったそうです。責任のことを言うのは、やはり、集中して瞑想を続けると窮地に陥る時も多々あるのでしょう。瞑想に関しては危険性は確かにあるので、自身が把握していない瞑想をしている人に関しては責任が取れない、というのはわかります。であれば、そう言えば良いのであって、他の瞑想についてゴエンカ氏がつらつらと問題点を連ねるのは微妙です。それよりも、自分たちがやっている手法以外のことは分からないので責任が取れないから受講させることはできない、ということであればはっきりとそう言ってくれた方がわかりが良いです。グダグダと理由をゴエンカ氏が並び立てるよりよっぽどわかりが良い。瞑想には確かに多くの危険性があると思うので。講義の中でも安全性について説明が多くありました。グルがいれば安全なやり方を組み合わせて弟子にやらせることができるのですが、それでも瞑想であるからには危険性は残るでしょう。それだけの覚悟が本来は瞑想に必要なわけですが、それを技術的な手法にしてしまったのは一長一短ありますね。ここのヴィパッサナーやっている人が他の瞑想がいけない理由をいくら連ねても説得力に欠けます。それを判断できるのはグルのレベルの人だけなのですから、素直に「自分はよく分からないけれども、グルのゴエンカ氏がそう言っているので従っている」とでも言ってくれた方がよほど素直でわかりが良いです。同様に、グルにヴィパッサナーを勧められたのだとしたらその理由を真似っこして言うのではなく、そのまま「グルが勧めたのでやっている」とだけ言えばいいのであって、グルが言った理由をおうむ返しで言っても説得力がないのです。グルが自分にヴィパッサナーを勧めたと言う人が受講者にいて話をしたのですが、他の瞑想のことを馬鹿にしてくる感じでした。他の瞑想は意味がなくて、日本人にはヴィパッサナーだと信じ切っており、他の瞑想をしている人を見下している感じでした。せっかくヴィパッサナーを10日間受けたのに結果がこれでは残念すぎます。これも素直に「グルが私に勧めたので、私はグルに従っている」と言えばそれで十分なわけです。グルは貴方にそう言ったのであって、他の人に勧めたわけではないのですから、ヴィパッサナーが貴方に良いとグルが言ったとしても、グルとしては他の人に言ったわけでは決してないでしょう。それを、他人も同様と思ってしまうのであれば、その受講生は所詮はそのレベルです。
  • そう言うわけで、他の瞑想をしている人に対しては組織は意外に排他的。いや、噂どうりなのかも。他の人の話を聞くと、「そのことを言うと面倒なので最初から他の瞑想していることを言わないで参加する」と言う人や、奉仕者をしている人であっても同様に「言わずに参加している」と言う人もいます。私は正直に直球の質問をしてみたら、上のように、あっけなく壁を作られてしまいました。
■かつて、ブッダの時代はヴィパッサナー瞑想は特別だった。

  • ゴエンカ式ヴィパッサナーは、ブッダの時代にまで遡って、ブッダの時代にはヨーガよりブッダの方が優れていたと主張し、だから今でもブッダの手法が優れていると主張しています。何故かは知らないが、今もヨーガは当時のままであることを前提に話をしています。ゴエンカ式ヴィパッサナーと比べるべきは当時のヨーガではなく現在のヨーガではないのか?
  • ヨーガはブッダの時代を経てシャンカラチャリヤや大勢の偉人により柔軟にブッダの意見を取り入れており、ヨガの瞑想はもはやブッダの時代のように「集中のみ」ではなくなっています。というか、ヨガの瞑想が集中というのはある種の誤解というか分かりやすさのための初心者向けの方便であって、最初はそういう理解で良いけれども、聖典(古典)の解説書や修行が進んでいる人の本を読むとそんな薄っぺらではないことがわかります。各種の書物を読むと、ブッダの言っているヴィパッサナーの手法もヨガ瞑想には余すところなく取り入れられており、ゴエンカ式ヴィパッサナーの言うところの「ヨーガは(マントラなどで)集中しか行わない単純な瞑想」なんてのはかなりの偏見に満ちています。ヨーガにとって「(マントラへの)集中」は瞑想のほんの始まりにすぎない。
  • 現代においては、ヨーガと原始仏教を区別することにそれほどの意味があるとは思えない。どちらも古典ではないか。
  • 私には、ヴィパッサナー瞑想とヨガ瞑想がそれほど違うとは思えない。もちろんやり方は違うが、本質は同じではないか。これは、私が短くも瞑想を体験して、特にナーダ音に関する認識を経て感じた現時点での結論。
■ヨガ系の人から見たヴィパッサナー瞑想

  • マントラなどのヨガ瞑想も集中系(サマタ系)だとよく言われますが、それは「最初」だけの話で、瞑想が進むにつれヴィパッサナー瞑想になってゆきますので、実際のところ、ヨガ瞑想とヴィパッサナー瞑想はそうは変わりません。
  • ヨガ系の人の話を聞くと、ヴィパッサナーについて概ね肯定的。他の瞑想者の参加を拒否しているのはヴィパッサナー側のみ。ヨガ系の人はあまり「よくない」ということを言わなくて、「良い」と「凄く良い」しか言わない人が多いので、そういう意味でヴィパッサナーを「良い」と言っている人が多い感じです。もちろん「凄く良い」と言っている人もいて、ヨガをしていても、瞑想に関してはヴィパッサナーが良いと言っている人も中にはいるようです。ヨガ系の人の基本スタンスとしては、合う合わないは人によってそれぞれあるのですから、色々と試してみて自分にあったものを選べば良い、と言います。ヴィパッサナーの人も説明としてはそういうのですが、ヨガの人はナチュラルにそのことを言うのに対して、ヴィパッサナー側は少しヒステリー気味に反応してくるところが、何故なのかはよく分からないところです。言葉としては同じだけれども、ナチュラルの程度に差があります。
  • ブッダが生きていた時代はたしかにヨガ瞑想と言えば集中系(サマタ系)でサマーディを求める瞑想でしたので、ブッダの時代でいえばヴィパッサナーとそれ以外の瞑想、という対比は成り立ちます。しかし、既にブッダの時代から2500年以上経っていますから、ヨガ瞑想もヴィパッサナーを取り入れており、今や、そう変わらないと思います。ゴエンカ式は古典に基づいていますから、今のヨガ瞑想ではなくブッダの時代のマントラなどのヨガ瞑想を題材にあげてヴィパッサナーの良さを論じています。ここに誤解の生じる点があるわけです。
  • あまり勉強せずにただゴエンカ式の説明だけを聞いた人は、ヨガ瞑想とは集中系(サマタ系)だからゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想が優れていると思ってしまうかもしれません。その思考は「集中しか行わないサマタ瞑想、サマーディ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」の対比に簡単に陥ります。それは、「ブッダの時代のヨガなどの瞑想」と「ブッダ式ヴィパッサナー瞑想」を比べているわけです。実際のところヨガ瞑想はブッダ式ヴィパッサナーをも取り入れて、今やヴィパッサナーと言っても遜色ないのですが、それでも、ゴエンカ式を信奉する人の中には「ヨガ瞑想はただのサマタ瞑想で集中しかしない」などと言う人がいます。
  • ゴエンカ式ヴィパッサナーをしている人がこういう点を知らないだけならいいんですけど、上に書きましたように、(ゴエンカ式)ヴィパッサナー瞑想こそが最上で他の瞑想は駄目なんて言っている人は、自分の無知で他人を馬鹿にしているのであり、とても愚かだと思います。
  • 最初に述べたように、精神世界の初心者は特権意識を育ててしまうことがよくあります。せっかく悟りを目指すヴィパッサナー瞑想しているのに特権意識が育つなんて、とても残念すぎます。初心者はある程度仕方がないのかもしれないです。誰しもが通る道なのかもしれません。
■グルの不在

  • 瞑想手法や哲学はブッダに沿っているし良いものだとは思いますが、やはり、弟子の見極めができるグルがいないのがとてつもなく残念。もっと遥かに良くなる素質がある気がしました。グルはいないけれども伝統を変えずにひたすらに守っている、と言う感じです。それはそれで悪くはないし、必要なことではあるように思いますが、ちょっと物足りない。守るために多くのものを捨てている印象。
  • 指導者がきちんと補って追加説明をすればいいのに、ただ座っているだけで、ゴエンカ氏のオーディオを「プレイ」するスイッチをカチっと入れるのが日課であり、質問時間は細かく聞く感じでは全然なくて壁がある。教科書を読んで聞かせるだけのただの平凡な教師でしかない。
■昔習った、体系化されていない、広義のヴィパッサナー瞑想

  • 20年ほど前にスピリチュアル系で心の観察による瞑想を習ったことがあったので、懐かしい感じを受けた。それは、仏教のヴィパッサナーほどは体系化されていなかったが、おそらく、その大元はテーラワーダ仏教などの「動きながら全てを把握する瞑想」だったのかなと。それは広義ではヴィパッサナー瞑想に含まれるのかなと。食事をするのも瞑想、歩くのも瞑想、思想を観察して受け流すのも瞑想、という感じは、仏教系ほど専念されてはいないけれども、ポイントは同じ感じでした。ですので、すんなりと入っていけました。ただ、ヴィパッサナーの場合は心の観察だけではなくて感覚が重要としているのが違うところで、講和の中でその点を重視しています。
■心の観察だけでなく、体の感覚を使う

  • ヴィパッサナー瞑想では心の観察だけでなく、体の感覚を使います。前者の心の観察は特に初心者にとっては観察における強弱だけの問題なので集中のサマーディがあるなしに関わらず頑張って心の観察をするか、あるいは慣れてくれば自然に観察しさえすれば良いのですが、後者の体の観察は、いわゆるオーラの観察でもあるわけで、集中のサマーディがあるなしで大きく違ってくる印象を受けました。集中のサマーディが達成、あるいは、ある程度の集中ができる場合はオーラが体の周辺に留まります。その留まっているオーラが体の各所を海流のようにうねうねと各方向に波打っては消えてゆくのを観察するのがヴィパッサナー瞑想なのですが、集中ができない状態ではオーラが針のように周辺に発散してしまって周囲に不快な印象を撒き散らし、本人はと言うと激しい思想の流れで苦しいだけのように思います。そこは頑張って集中するのでしょうが、であれば、そのような人にはヴィパッサナーではなく10日間ずっとでもアーナパーナ瞑想で観察だけさせていれば良いと思うわけです。その方がずっと成長するはずです。少なくとも、アーナパーナ瞑想で息を観察して最低5秒間は息だけを観察して無心になれるくらいでないとヴィパッサナーに入るべきではないのかなあと個人的には思いました。無心と言っても、無理やり抑えているのと自然に心が落ち着いた無心とは随分と違うのですが、どうにかして5秒間も無心にできないのであればまずは集中を学ぶべきでしょう。
■ヨーガでは段階的に瞑想に進む

  • ヨーガでは段階的に瞑想に進みますが、ヴィパッサナーは最後のステップとして使えるのではと思いました。既に瞑想はある程度できていて、その先に使う瞑想ですね。ですから、きっと多くの人にとっては、ヴィパッサナー瞑想をしているつもりでいるが実際は本当のヴィパッサナー瞑想ではなく単なる集中の瞑想に実質なっているのではないかな、と思いました。最近はヴィパッサナーとかマインドフルネスが流行っているのでこれが人気になっていますけど、本来は瞑想と言うと集中から始めるわけです。
  • ヨーガの目的はヨーガスートラにあるように「心の制御(死滅)」と言うことで、その8段階の最後にはサマーディがありますが、そのサマーディは一つの到達点ではあるのですがそれがそのまま悟りではありません。ヴィパッサナーではサマーディを「基礎」として悟りへと至らしめる瞑想であるわけですが、まず、ヨーガスートラで言うところのヤマやニヤマと言った道徳的な面、あるいは仏教でいうところのシーラによる基礎があって、その上に集中のサマーディがあり、サマーディで「心の制御(死滅)」があってようやくこのヴィパッサナーに至るわけです。このことをは頭ではとりあえず理解すべきでありますが、本質は体験して見ないと分からないので、まだヴィパッサナーの段階に至っていない人がいたずらにこの瞑想をしてもさ迷ってしまうのでしょう。何人かに話を聞きましたが、明らかに迷っている人が見受けられました。本来はグルがいて適切な導きをするべきなのですが、基本的に各人に任されていて放置なのでケアはなされません。単に場とやり方の指導をするだけなので、適切な効果を出せない人も多いのでしょう。
■サマーディの集中の度合い

  • 仏教ではサマーディに8段階あるようで、サマーディは集中を極めること、と広義では説明されていました。印象としては、仏教のサマーディは集中9割観察1割と言う印象です。ヨーガのサマーディはコンテキストによって様々ですが、集中9割と言うことはないように思います。ヨーガのサマーディはコンテキストによって集中3〜7割を意味している印象ですので、仏教で「サマーディをしているだけでは悟れない」と言っても、それは「集中9割の瞑想をしても悟れない」と言う意味に置き換えると良さそうです。ヨーガではサマーディにはいくつも種類があるので、言葉だけでは分からず、きっとグルの言うニュアンスを聞かないとどれを指しているのかよく分からない気がします。ヨーガでは、最初は強い集中から初めて心が落ち着かせ、心が落ち着いてきたら次第に集中を弱めて行って観察を増やして行くのかなと。ヨーガでは強弱のバランスを取るのに対して、ヴィパッサナーは手法自体を切り替えているのかなと。ヴィパッサナー瞑想合宿においては集中はアーナパーナ瞑想、観察はヴィパッサナーと役割を分けていましたが、もっとアーナパーナ瞑想が注目されても良いのではと思いました。
■メッターバーバナ瞑想をして愛を広める?

  • ヴィパッサナーの最後にメッターバーバナ瞑想をして周囲に愛を広げる、と言うことでした。これって、講義の中で散々批判していた「自分の周囲にカバーをして覆い隠してしまう瞑想」そのものでは? と思いました。 ちょっと矛盾を感じます。自分のやっていることを誤魔化すために他を批判するのは良くあることですけど。実際、スタッフなども薄っぺらいカバーをしている人が散見されました。スタッフは単なるボランティアなので普通の人とあまり変わらないとはいえ、この方法に共感したのだからそこからある種の傾向は見て取れるでしょう。私はメッターバーバナ瞑想そのものは素晴らしいと思いましたが、単に、主張に一貫性がないなと思っただけです。精神世界は何でもありですから、こう言う小さな違和感を見逃してしまうと間違った方向に導かれると思います。
  • 勝手な想像ではありますが、メッターバーバナ瞑想は、ブッダはヴィパッサナー瞑想をした結果として「そのような状態になった」という種類のもので、元々は瞑想ではなかったのではないかなと受講中にイメージが降りてきました。悟りを得た後、愛の状態になったのかなと。受講中は調べ物などもできないですし、指導者にやり方以外のそのような余談を聞くフレンドリーな雰囲気ではなかったので聞いていないので本当のことはわかりませんけどね。そういうわけで、メッターバーバナ瞑想には違和感があります。あくまでもヴィパッサナー瞑想で悟りを得たら愛が溢れた状態になったのであって、メッターバーバナ瞑想で愛を想像するのは上に書いたように「心にカバーをかける」種類の瞑想なのかなと思いました。このあたりが、ヴィパッサナーのスタッフに違和感を感じた理由かもしれません。宗教ではないと言っておきながら、どこか宗教チックな盲目的な雰囲気なのです。個人的な主観的な印象ですけどね。メッターバーバナ瞑想で覆いをかけて、異論を唱える人は追い出すような雰囲気です。相談しようとして話すだけでも何か不思議な拒絶反応があるので、おかしな感じです。あそこのスタッフのようになりたい、とは思いませんでした。惹かれません。指導者にも魅力を感じませんでした。うまくヴィパッサナー瞑想ができない人をそのまま返すと問題になるのでメッターバーバナ瞑想をくっ付けて取り作った、と言うようにも想像できてしまいます。どちらにせよ、講義の内容とこのメッターバーバナ瞑想の間には違和感があります。再度繰り返しますが、メッターバーバナ瞑想それだけならば異論はありません。そう言う愛の瞑想も「アリ」だと思います。ただ、講義の内容と矛盾している、と言うお話です。こう言う矛盾を見逃すと精神世界において囚われることになりかねません。
■ダラムサラとの比較

  • 元々は、私がインドのダラムサラを旅行している時に通りかかった瞑想ホールがヴィパッサナーとは知らずに凄いオーラだけを感じて、「これは何だろう」と思って調べてヴィパッサナー施設だったという話から受講を考えました。それ以前にも何度かヴィパッサナーのことは聞いていましたが受けるほどではなく、実際に施設を見て受けようと思ったのでした。ですので、本当はダラムサラで受けようかと思っていたのですが、最初の1回は説明を日本語で聞きたかったので日本の千葉で受けたのでした。雰囲気としては、日本のそんじょそこらよりは良いけれども、ダラムサラの圧倒的なオーラと比べると寂しい感じです。日本ではもう受けることはないかな。
■今回の受講生は真面目?

  • 今回は、他の回と比べて随分と真面目な受講生だったらしいです。初めての参加だったので良くわかりませんが。
■同じことはヨガでも達成できる

  • 10日間座る環境はなかなかないので貴重ですし良い経験にはなりましたが、これを受講しなくても同じようなことはヨガで達成できそうな気がしました。そういう意味では、ヨガの良さも再認識しましたし、一度に長く座ることの良さもありました。確かに、最終的な悟りのためにはこのような瞑想も必要なのかもしれませんが、この世の99.99999%の人は悟りなど遥か遠い筈です。であれば、間違いの少ない瞑想をした方が良いです。
  • もともとヨガをしていましたので、これを受けなくても、実はヨガで十分だったのかもしれないです。ヨガをしていなければかなり劇的な差があったのかもしれませんが、もしかしたらとてつもない致命的な落とし穴にハマって一生を台無しにしていた可能性もあります。ヨガをしていたからこそ致命的で絶望的な破壊的な結果を避けられたのは確かだと思っています。だからこそ、初心者にゴエンカ式は勧めません。
■怒りの沸点が低い

  • ヴィパッサナー愛好者の中には、いらつきや怒りの沸点が異常に低い人がいます。会場でも会ったし、上に書いたマネージャーもそうでした。過去の受講生にもそういう人がいました。これはどういう事でしょう? ヨガにせよヴィパッサナーにせよ、非暴力は基本的な道徳として語られています。ヴィパッサナーであればシーラ、ヨガであればヤマのアヒムサーです。それは物理的に傷付けないだけでなく、言葉で傷付けないことも含まれます。更には、思考で相手に悪い思念を送らないことも含まれます。ヴィパッサナー愛好者が悟りのために努力する過程で簡単にキレて相手を傷つけるのは基本的な道徳に反しています。こういう矛盾点は精神世界ではきちんと押さえないと変な方向に進む。違和感があるということは、何かが間違っているのだと思います。
  • ヴィパッサナー瞑想を本来の形であるところの深いサムスカーラ(カルマの種)を浮かび上がらせるための瞑想としてではなく、葛藤を手早く捨て去るための瞑想として使っている人が多いのでは、という気がしました。だから葛藤はなくなってもその根っこにある葛藤の種であるサムスカーラ(カルマの種)を根絶するところに至らず、単に表面的な葛藤を消し去って終わりになる。すぐに表面的な葛藤を捨て去るようになると、葛藤をきちんと受け止めることに慣れなくなる。根源の種が残っているから慣れない葛藤がやって来ると簡単にキレる。怒りの沸点が低くなるのはこういうことなのかなと。
  • 精神世界には怒りの原因を遠ざけてピースを保とうとする人が少なからずいるのです。怒りの原因を否定しまくって自分の周囲をピースっぽく保ちたいけれども不愉快なことがちょっとでもあるとすぐにキレる、という感じです。ピースのことを履き違えているのかなと。そう言う人たちが言うピースかどうかなんてのは所詮は感情レベルですから、本当に客観視できれば感情は重要ではないとわかるし、もちろん成長すればピースな状態は増えるけれども、それは不愉快を否定して得られるものではない。むしろ、不愉快は過去のサムスカーラ(カルマの種)を明らかにしてくれる重要な大切なものです。精神世界に凝っている人の中には不愉快を避け続ける人がいるけれども、普段はピースでもちょっと傷つけられてすぐにキレるのは本当のピースではない。種のサムスカーラのうちに滅することができれば良いですが、出てきてしまった現象には対峙するしかないわけです。否定ではなく、しっかりと見て理解する。キレて避けていたら、何度でも同じレッスンがやって来ます。
  • この種の人々は、ピースをネタにしてヒエラルキーを作ることがあります。他人の葛藤を指摘してヒエラルキーを作るような人たちはピースのことを履き違えています。ちょっと引っ掻かれただけで崩れるようなピースを一生懸命守りつつ、同様の考え方をした同等レベルの人が集まってピースのヒエラルキーを作っている団体が精神世界には一定数います。ここは完全にそうだとは言い切れませんが、少しその傾向が垣間見られました。
■やはり、グルの不在が根本原因

  • 上にも書きましたように、手法はいいのだからグルがいて適切なタイミングで適切な瞑想を与えたり支持するのであればとても効果的だと思います。ですから、とてつもなく惜しいです。もっと良くなる筈なのに勿体無いです。こういうのは人の意識と密接に関わっているのでタイミングがとてつもなく重要なのに、思想面の制約を優先させてしまっているからグルの存在を否定してしまい、結果、グルがいないがゆえに変な方向に行ってしまう人が後をたたないのでしょう。
  • きちんと効果を判断できて、適切な時期に受けるのであれば効果はあります。でも、グルがいないのであればそれはほとんど雲を掴むようなものなのでは? だからこそ惜しいです。ホント。
■無宗教の仮面を被った宗教団体

  • ヨーガでは神様がいるので守られている感じがあります。ヨーガとヴィパッサナーのどちらも「宗教ではない」と言っている点に関しては同じですが、その立ち位置が随分と違う気がしました。ヨーガでは多神教、ヴィパッサナーは無神教寄りの印象です。ヴィパッサナーでは「悟った人」と言う意味での「ブッダ」を頂点に置いていますのでそれは非人格化されているのですが、非人格化の手法としてヨーガでは多神教、ヴィパッサナーでは無神教を選んだと言うことであれば重点の置き方が違う気がします。ヨーガでも仏教でも世界を「ブラフマン」などと読んで「全てが神」と言う世界観を作っている一方で、その点は変わらないのですが、ヴィパッサナーでは「ブッダ」を頂点に置くと同時に非人格化かつテクニック化しています。ここのヴィパッサナーでは「全てが神」と言う視点が薄くて、「自身が悟る」と言う「テクニック」にフォーカスしているわけです。これは他の宗教を信仰している方でも参加できるようにする配慮だった筈が、やがては多神教という視点を失わせてしまったという感じでしょうか? 推測ですが。
  • ヴィパッサナーは無宗教をうたっていますが、実際は、思想を矛盾なく組み立てるためには無宗教にせざるを得なくて、だから無宗教と言っていますが、その思想以外を排除しているので立派な宗教だと個人的には思うのです。例えば、個人がそれぞれ悟る必要があるからグルの存在が否定されて指導者だけがいます。グルがいないから個人に沿った修行が与えられずに決めたれたカリキュラムを受講生が選ぶスタイルになっています。思想を絶対化している宗教が仕方なく無宗教を標章しているのだと判断しました。おそらく関わっている本人たちは否定するでしょうが。思想を優先させすぎてシステムがうまく動いていないように見える。もしかしたら小さくゴエンカ氏がやっていたときはじグルっぽく指導していたのかもしれないが、今となっては決まったシステムを維持するだけの団体になっているような気がした。とある詳しい人に聞いたら、やはり組織が大きくなると硬直化するし、やっぱりきちんと指導できるグルがいないのですかね、と言っていました。ゴエンカ氏はグルなのにグルではないと自分では言っていたのではないか。そして思想を優先させてしまい、本来いた筈のグル相当の自分がいなくなっておかしなことになっています。単なる理屈でグル不要と言っているだけであればグル相当の人を違う呼び名でも良いから担当させるべきでは。
  • 詳しい人が言うには、ヴィパッサナーは大乗仏教とも違って無我の思想に基づいているためにその後出てきたヨガのシャンカラチャリアと違って見えるそうです。時代の違いを思えば、ヴィパッサナーはブッダの時代のものですから当時は未分化だったり説明が不十分な点もあるでしょう。技法を復活させるつもりが、古い時代の思想も復活させてしまって混乱を導いているのかもしれません。後の時代の人々の努力は無視してブッダに帰依しているのでしょう。でも、本当は帰依なのに思想的に帰依と言えないから色々な矛盾が出てくる。後の時代のシャンカラチャリアのような偉人の努力もここには反映されていないわけです。
  • 思想で無宗教を謳っているので本来は受講生の疑問や異論を受け止めるべきだと思うのですが、実態は宗教なのに思想的に無宗教と言わざるを得ないためにシステムとして指導者のエリアを厳密に分け、手法以外の質問は一切受け付けない仕組みにしたのでしょう。質問を受け付けてしまうと矛盾が明るみに出て、本当は根拠が「ゴエンカ氏を信じる」ところにあるのにも関わらずそのゴエンカ氏本人から「宗教ではないので信じずに自分で判断しなさい」と言われているので自己矛盾に陥り、キレるのでしょう。自己矛盾から目を逸らして生きていたのに、その自己矛盾を突きつけてくる人に対してキレて壁を作る。たしかに精神世界には面倒な人が多くいますが、ほぼ初対面で二言三言話しただけの私にいきなりキレてくるのはどういう事でしょう。一般のボランティアならともかくマネージャーの態度がそれですし。ありのままを言ってもらえた方がわかりが良いです。例えば「ゴエンカ氏は自分で判断するようにと言っていますが、自分はまだ理解が十分ではないので、ゴエンカ氏の意向に反してはいるが今のところはゴエンカ氏の発言を信じて活動しています。だから、これこれのことは、私はまだはっきりとはわからないが、ゴエンカ氏がそう言っているので従っている。」というように。それは「二兎を追う者は一兎をも得ず」みたいなことわざを半ギレになりながら言われるよりもずっとわかりが良いのです。でも、それができないんですよね、おそらく。
  • ある程度の瞑想の境地に達したら、自分が怒鳴ったらそのダメージは相手ではなく自分の方に大きく跳ね返ってくることを体感的に知っていますので、一定レベル以上の人は他人を傷つけることができなくなる筈なんですけどね。怒鳴ることができるのであれば、そういうレベルなのでしょう。ヨガで言うヤマのアヒムサ(非暴力)、ヴィパッサナー瞑想でのシーラがなければいくら瞑想しても上に境地にたどり着くことはないのかな、と思います。ここで言っている「自分に大きく跳ね返ってくる」とはカルマのような理論的な話ではなくて、頭で理屈で考えることではなくて、体感的に、その怒鳴った瞬間に体と心で瞬時にその通りに大きく跳ね返ってくる結果を、文字通りそのままの意味で体感することを意味しています。
■グラウンディングとヒステリー

グラウンディングとはスピリチュアル用語で、地面あるいは地球を信頼して繋がりを作り、繋がりを保つことです。

  • ここのヴィパッサナー瞑想は「アーナパーナ瞑想」「ヴィパッサナー瞑想」と「メッターバーバナ瞑想」で成り立っていますが、いわゆるグラウンディングに関するワークが抜けているため、エネルギーが頭に集まりがち。指示されていない精神的なワークを自分ですることは許されていないため、10日間の間ずっと頭にエネルギーが偏ることになる。普通であればグラウンディングしてエネルギーを下におろすような状況でも自分でのワークは許されていないので頭にエネルギーが溜まりがちになる。瞑想の指示は「観察するように」とだけなっていて、「エネルギーを動かす」とはなっていないので、頭に溜まっているエネルギーを何日も観察することになるのです。これは健康に悪いです。こんな時もグルがいれば適切な指示がされる筈ですが、機械的で硬直的なカリキュラムでは危ないです。上達して軽く観察するだけの状態であれば問題ないのかもしれませんが、「観察できていない箇所があったら数分観察しなさい」と指示があるので、意識をそこに集めると頭にエネルギーが多少集まります。単に私が力を入れすぎなだけかもしれないですが、ヴィパッサナー初心者だからこそうまくできていない時のケアが必要な筈で、実際はそのようなケアは皆無ですので、10日程度なら致命的にはならないとはいえ、それなりに危険です。ヒステリー気味になっていた人もいました。
  • 7日目くらいまでは面白かったのですが、8日目くらいから飽きてきて集中が途切れたところをバランス若干崩してしまいました。それでも色々と発見があったので興味深かったのは確かですが。もっと柔軟性のあるスケジュール、あるいはグルがいれば一旦休憩とか柔軟にできたと思うのですが。そういえば、他の人はグループ瞑想以外の自由瞑想時間にホールにいなくて部屋で寝ていたりしたので、私も全てに参加せずに少し休めば良かったのかもしれません。
■クンダリーニ

  • クンダリーニに関係する体験はありませんでした。いつもあるようなムーラダーラ(会陰)の感覚は変わらずありました。上に書いたように各種ナディのエネルギーの流れは感じましたが、ムーラダーラからのクンダリーニは感じませんでした。
■浄化

  • ヴィパッサナーの目的は「心の浄化」なのですが、思っていたより変わりませんでした。上に書いたようにグラウンディングに関する不具合で、逆にちょっとエネルギーのバランスを崩してしまいました。自分でそれを補正するような精神的ワークが禁止されていましたので安定を崩したままになり、ちょっと微妙でした。
■ヴィパッサナー瞑想によるマインドコントロール

  • 最近は職場でヴィパッサナー瞑想を薦める場合があるとのことですが、もし上司がパワハラや虐待の常習犯で部下にこのヴィパッサナー瞑想を受けさせるとしたら、その目的はおそらくマインドコントロールでしょう。その場合、部下は瞑想についての知識などほとんどなく受けることになるでしょうから、結果としては本来の深いサムスカーラ(カルマの種)を浮かび上がらせる瞑想としてではなく、表面的な葛藤を取り除くに留まる。表面的な葛藤を取り除くためにヴィパッサナー瞑想を使用した場合、一見するとピースになって良い結果を生み出したように見えるが、おそらくは上記のように怒りの沸点が下ってストレス耐性は下がるでしょう。そこに上司のパワハラがぶつかれば簡単に心が折れて従順になるでしょう。上司からすれば部下のストレスをうまく取り除いた上に自分に都合の良いようにマインドコントロールできてイエスマンができあがるわけだからパワハラ上司からすればとても有り難いセミナーだと言える。この種の瞑想はある程度の信頼関係がある環境で生活することを前提にしているため、もし強いストレスとピースを交互に与えられると仕事場ならばパワハラ、子供であれば虐待になるわけですが、臨界点を超える前に再度ヴィパッサナー瞑想を受けさせればとりあえずのストレスは解消され、再度搾取できるようになる。精神世界は明るくてピースなイメージがあるが、そこにつけ込んで搾取しようとしている人々も詰めかけているため、気を付けないと精神的に奴隷になって一生他人に搾取され続ける可能性があります。それに気付かないでいる人も多い。このヴィパッサナー瞑想それ自体は悪いものではなく、使い方によっては強力な結果を生み出すが、そのようなパワーのあるところに搾取者が近寄ってくるのは世の常かもしれません。それに気付いて搾取されないようにするのも精神世界における一つのレッスンであるわけです。
■ゴエンカ氏はよく怒鳴り散らしていた

  • ゴエンカ氏はよく怒鳴り散らしていたようですので、この団体は怒鳴る風土なのかもしれませんね。ゴエンカ氏は自身が怒鳴ってもケロっとしていたようですので、ここでも、怒鳴った方はケロっとしているのかも。些細なつまらないことで怒鳴られるなんて、そんな団体とはつきあっていられません。無宗教の皮をかぶった宗教団体ですから、教義に合わないことに対しては怒鳴っても良いのでしょう、としか解釈できません。宗教団体で良くあるように、私が何を言ったところで、私を悪者にして自分たちを正当化するだけでしょうから、何を言ったとしても無駄です。聞く耳があるのであれば言葉を遮って半ギレになったりしないです。自分たちが主張しているように宗教団体ではなくて手法を教えているだけの団体であれば聞く耳があって改善してゆく意思がある筈ですが、やり方を信じるか信じないかの2択であればそれは宗教です。自分たちでは「10日間受けた後、これが良いかどうか判断しましょう」と言っていますのでこの言葉だけを見れば非宗教ですが、実際のところ、疑問に答えようとしなくて、疑問の内容をしっかりと聞こうともしなくて、やり方だけ伝えて、不都合があれば怒鳴ってマインドコントロールしようとするのであれば、それは宗教でしょう。こう言う団体とは、言っても無駄とわかったまま付き合うか、離れるかの2択です。でも、マインドコントールにかかってしまった人はこの2択すら選べないです。ヨーガなど他の瞑想をしていながら隠して奉仕者したり受講したりしている人は前者なのでしょうね。でも、そういう2重性を持ったまま瞑想をするのは良くないと思いますけど。心を隠したまま瞑想をしたところで成長はなかなか難しいと思います。その点に関しては、もし隠すのであれば「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言うマネージャーの話は確かに正しいと思いますが、私の感覚では、単なる使い分けだけの問題なので他の瞑想と適材適所で使えば良いと解釈できたので、隠したりはしないです。そんなことを言うと無宗教の皮を被った宗教団体のここに激しく拒絶されるのでしょう。ここは、他の瞑想と使い分けようとする人がいれば、ゴエンカ氏のように躊躇せず怒鳴ってくるのでしょう。宗教団体と怒鳴るのが組み合わされるのは、ほんと最悪ですよ。愛とムチの使い分けですから、それって「虐待」「悪い意味での躾け」「パワハラ」の種類ですからね。心が萎縮して、言うことをハイハイ聞く人ができても仕方がないです。どうも、それをやられたかのような萎縮している奉仕者がちらほら見られました。上に書きましたように、多少のマインドコンロールが入っているのかもしれません。宗教団体に入る人は自ら望んでマインドコントロールされ、それで心の平安と自分では思い込んでいる状態に落ち込んで行くのですから、他人がどうこう言っても仕方ありませんけど。
  • 最終日に参加者の心のケアをせずにそのまま解散にして終了になったのですが、私としてはこの「放置」とも言えるやり方を見て、かなりこのシステム及び団体に疑問を感じた。最終日(帰る日の1日前)の夜以降は指導者との質問の時間がなくて、生活場所も分かれているから指導者との接点もなく、かと言ってマネージャーに話をしたら半ギレされてまともに対応してもらえないし、結局、多くの人は参加者同士でとりとめのない話をしていたような感じで、最重要の瞑想に関する肝心な質問を最後の最後でできずに参加者はそのまま解散になっていたのが印象的だった。最終日の昼間までの普通の質問時間における他の参加者の質問もいくつか聞いていたが、指導者が外国人だからか何なのか、いまいち的を得ない返答で、質問者は「は、はあ・・・」みたいな感じで納得度が低かったのも印象的。途中での理解度がその程度なのですから、そんな参加者のケアを最後の最後でこそしっかりと行うべきなのに、最後の対応を放棄してしまう団体のあり方は、私の常識にはそんな終わり方なんてないのでかなり衝撃的でした。「放置してしまっていいんだ!?何だそりゃ?」てな感じのショッキングな最終日でした。上に書きましたように、思想的に個人を重要視しているからグルの存在を認めないのでしょうね。上に書いたように実際はゴエンカ氏が「グルではないと自分では言いつつも実質はグル」だったのですから、であれば、ゴエンカ氏がいなくなった後も「実質的なグル」が必要なのにそれを欠いているのでしょう。
  • 質問時間の質疑について「哲学的議論はせずに、瞑想のやり方の質問だけにすること」と注意書きがあるが、多くの人は哲学的議論をしたいのではなくて、ただ単に納得したいだけだと思いますよ。それを「哲学的議論」とか言って質問者を切り捨てているところにこの団体の化けの皮が見え隠れします。結局は「やり方」しか教えません、と言いさえすえば済むのに、哲学的議論とか言って話を誤魔化しています。確かに講義オーディオでは仏教的な話を聞かせていますが、それはただの録音であって生きた講義ではない。その生きた講義及び教えをするための指導者かと思っていたのに、指導者は座っているだけで、講義は録音オーディオを流すだけで、質問タイムには「やり方」の質問しか受け付けないというのであれば、自分たちが言葉でいくら誤魔化していても、単に「やり方」しか教えないと言うのがこの団体の方針なのでしょう。だから、最終日(帰る1日前)の午後以降は指導者への質問タイムがないのです。そもそも指導者とは生活エリアが分かれているので終わった後に個別に質問したり挨拶したりもできない。なんとも「放ったらかし」の印象を受ける。10日間(前後も合わせれば12日間)も拘束する合宿で、最後のこの放ったらかしはかなりショッキングです。凄く違和感があります。運営側はそれでいいと思っているのだろうか? ゴエンカのシステムが生まれた国では後のフォローがあったのかもしれないが、フォローも大してない日本で、自ら勉強したり再度瞑想会などに参加しないと理解も進まないような合宿で、最後の最後にも微妙な面を突き付けられました。これは、他の人に勧めることはできないです。上に書きましたように、個人主義だから個人が勝手にやればいい、と言う趣旨なのでしょう。実際は宗教団体なのに、思想的に個人主義だからシステムとして放置するのでしょう。そう言う主義主張の、非宗教の皮を被った宗教団体ということでしょう。こんなことをいくら言っても、おそらくキレられたり怒鳴られたりするのが想像できるので、わざわざこんな非宗教の皮を被った宗教団体に指摘することはしません。私はここの実態がわかったので、この団体は自分たちで勝手にやっていてくれればいいのです。私は、この団体に何か言いたいのではなく、私が理解したことを書いているだけです。もっと変な団体はいくらでもあるし、この国は自由の国なのですから、誰しもが自分の好きに信仰すればいいのです。無宗教ですと言われてハイそうですかと考えもせず信じ込むことも個人の自由なので好きにすればいいのです。
■ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想者は他人に興味がない?

  • 長くヴィパッサナー瞑想をやっているように見受けられる女性マネージャーがボソッと「色々な人がいますねえ」と興味なさそうに呟いていたが、他人に対するゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想者の基本的なマインドの持ち方をよく表しているような気がしました。自分がまず悟ろうとする上座部仏教がベースになっているからでしょうか? 他人にあまり興味がないように見受けられました。ですから、精神的に混乱をきたしている人がいても放置なのでしょう。会場はただの「場」であって、他人と交流する場所ではないと最初の説明オーディオで言っていましたが、文字通り、そう言うことなのでしょう。それは、他の参加者との交流だけでなく、指導者との交流すらもする場所ではない、と言うことのようです。基本的にここは「放置」が方針のようです。
  • 私なんかは、精神的に混乱をきたしている人を放置する方針の運営側に対してイラっとしてしまうたちなので、こことはあまり合わないですね。方向性の違いですかね。世の中にはこういう方針の団体もあるのですね。もっと変な団体も山ほどあるので、たまたま人生の通りすがりに見た変わった景色だと思うことにします。
■ヴィパッサナー瞑想依存症?

  • もしかしたらこのような浅い瞑想を繰り返すことでヴィパッサナー瞑想依存症になるかもしれない。やがては何かがおかしいと気付けば良いのですが、気付かない人もいるかもしれない。精神世界には数多くの落とし穴があるので、ハマって成長が鈍化することもあるかもしれません。結局は自己責任ではあるのですが、致命的で取り返しのつかない落とし穴が多いのも精神世界です。何世代もかけて培ってきた英知を無駄にすることもあるかもしれません。
■浄化の2つの道

  • 魂のオーラは、光を注ぎ込んで浄化するか消滅によって浄化させるかの2択です。レッスンを活かして成長の糧にするのが光による浄化、もうどうしようもないオーラを切り離して無に返すのが消滅による浄化。しっかりと奥底の種であるサムスカーラを見て理解するのが光による浄化です。安易に葛藤を切り離して無に返すのは消滅による浄化です。後者にはレッスンによる学びがありませんから、上に書きましたように、同じようなことが起こると沸点が低くキレてしまいます。成長とは学びですから、一見すると浄化されていてピースでもその実態がどうなのかがとてつもなく重要だと思うわけです。
  • レッスンが重要とわかっている人は、一時的な葛藤も仕方がないものとして受け止めます。消滅による浄化を常にしている人はちょっとの葛藤も悪として受け止めますから、後者のようなコミュニティの中では非常に些細なことで傷付かないように気を付け合うことになります。お互い沸点が低くてすぐにキレますからね。そして、ちょっと葛藤がある人を責め立てることでヒエラルキーを作る。前者のようなコミュニティでは許容範囲がとてつもなく広いために葛藤も一時的なものとして受け入れられますから、そのピースさは後者とは別次元のものになります。そもそも前者のようなコミュニティでは他者の葛藤にそこまで興味がなくてそれぞれが自分のピースを楽しんでいますから、多少の葛藤はそもそも問題にならないのです。後者のような許容範囲の狭いコミュニティはピースのために多大な努力を払い、そしては疲れてゆくのでしょう。そんなコミュニティがあるなんて、ほんと世界は広いです。両方とも一見するとピースに見えるが見分け方は簡単です。前者は独立した個々個人がピースで他人にはあまり干渉しない。後者はピースをネタにヒエラルキーを作っています。前者は風通しが良くて気持ちがいいが、後者はピースと苛つきが交互に来る。後者のコミュニティでは相手の問題を指摘することでヒエラルキーを形成しようとする。後者のコミュニティからは独立が失われ、依存によるピースのヒエラルキーが形成される。前者のコミュニティには意見の多様性があり、それでもピースを保つよう個々が努力しています。後者のコミュニティでは意見の多様性が失われ、考える力を失い、リーダーの意見に従うことが正しいとされるようになる。これはまさに宗教ではないか? であれば後者を宗教と呼んでも差し支えないでしょう。私はこのヴィパッサナー瞑想団体を非宗教の皮をかぶった宗教団体の実態だと認定しました。
■やはり、無宗教の皮を被った宗教団体

  • この種の団体に関わっている人は自分ではおかしい点を絶対に認めなくて、いろいろと理屈をこねてきます。話を聞くと「そうかなあ?」と思ってしまうこともありますが、所詮は宗教ですので違和感を感じたら離れることが重要です。もしかしたらマインドコントロールされてしまって離れにくいかもしれません。それも全て自身のカルマですね。
  • 良いことも悪いことも全てカルマですが、やってきたカルマはレッスンとしてそこから学ばないと再度やって来ます。カルマを捨てているつもりが、実際には感情を切り離しているだけだから上記のように変になるんですね。一般的に宗教に関わっている人は変ですが、ここは非宗教なのに宗教っぽいのです。こればっかりは言葉でいくら説明してもわからない人にはわからないかもしれませんね。
  • 私は宗教もOKだと思っていますので、ヴィパッサナー 瞑想が宗教を名乗っても全く問題ありません。近代に入ってから、無宗教と主張している宗教団体が数多くありますしね。そう言うのも全て宗教だと私は思っていますから、ヴィパッサナー 瞑想が今更宗教だと言い出したところで何ら驚きません。
■日本と海外のヴィパッサナー瞑想

  • 私が参考にした人は全て日本人ですし日本での受講なので、他の国のことはわかりません。
  • 私が直接は知らないとあるインド人のグル(あるいはただのヴィパッサナー瞑想の先生)がヴィパッサナーは日本人向きだと言っていたと小耳に挟みましたが、インド人がどれだけ日本人のことを理解しているのか疑問です。とある人はそのインド人グルの言葉を真に受けて他の瞑想を小馬鹿にしていましたが、そんなところを見ると、どうもその考えは底が浅いように思います。深い考えであれば伝え聞くだけでも叡智が伝わってくる筈です。日本人なら簡単にマインドコントロールにかかるから効果が出やすいので日本人向きだと言っているのならばあり得ます。表向きはそうは言わないでしょうけどね。一応はグルなのに瞑想に対してそこまで深い理解がないだけかもしれません。効果だけを注目するのであれば、日本人にとってヴィパッサナーやマインドフルネスは効きすぎて危険な部類の瞑想に属するのかなとも感じます。あるいは、なんとなく勧めるために言った発言を日本人が曲解しているだけかもしれません。上に書きましたように、ヨガ瞑想を本当にやっている人であればヨガ瞑想は結局のところヴィパッサナー瞑想に通じていて、どちらもそうは変わらないことを知っている筈なのですがおかしいですね。発言の奥を見れば「おかしい」と感じ取れる筈なのに、インド人がそう言ったからと言って、さほど深い理解もせずにそれをそのまま受け止めて自分の意見にしてしまうのでは、瞑想に対する理解もその程度なのでしょう。
■よく分からずヴィパッサナー瞑想を受けた方がラッキーな効果が出る?

  • 私が通っているヨガのクラスで一緒になる子が昔海外でヴィパッサナー受けたことがあるそうなので話を聞いてみたのですが、最後の方までずっと頭の中でお喋りが続いてトラウマとかが出てきて大変だったと言っていました。察するに、これは本来のヴィパッサナー瞑想ができていなくてアーナパーナ瞑想の呼吸観察による心の観察が最後までずっと続いたのだと思われる。この子は最後には落ち着いてきたとのことだったが、であれば、本来ならばグルが見極めてアーナパーナ瞑想だけずっとやらせるべきだった。何人かの知り合いの感想といくつかのブログの記事を見る限り、ヴィパッサナー瞑想と言いつつも最後までアーナパーナ瞑想の心の観察だけを行ったと思われる人が随分と多いように思える。どこまでヴィパッサナー瞑想を理解しているかはそれぞれですが、効果を見る限り、アーナパーナ瞑想の効果を見てヴィパッサナー瞑想の効果だと言っているように思える。ヴィパッサナー瞑想は瞑想初心者がいきなりはできないと思いますよ。いわば、始めての瞑想チャレンジで運任せでこのセッションを受けてラッキーなことに危険な方向に行かずにたまたまアーナパーナ瞑想の効果が出てヴィパッサナー瞑想が良かったという的外れな感想をしている人が見受けられます。これは本来危険なことで、よくわからず生半可にヴィパッサナー瞑想してしまうと上に書いたように表面的な葛藤を無くすために使ってしまい、変な方向に向かいます。実際、英語がなまじできるが故に海外で理解して受けてしまってキレやすくなった子もいました。元々はカバーをかけていたのが表に出やすくなってしまったのでしょうか。海外で説明が英語でよく理解せずに受けてしまった方が単なる心の観察がメインになるような気もしますので、もしかしたらその方が危険は少ないのかもしれません。ヴィパッサナー瞑想ではなく、アーナパーナ瞑想10日間したと言ったほうが良さそうなブログも多々あるわけです。よくわからずに受けた方がヴィパッサナー瞑想がピンと来なくて実質アーナパーナ瞑想していたけれども自分はヴィパッサナー瞑想していたつもりでした、という感じですかね。きっと自分ではそうそう気付かないでしょうけど。それは結果としてラッキーだっただけで、危険性は依然として存在するわけです。本来瞑想は危険を伴うのでグルの指導が欠かせないのです。一方で、準備ができていないのにヴィパッサナー瞑想をしてしまっておかしくなったりキレやすくなる人も多くいるわけです。ゴエンカ氏の時代にはそれも「なるようにさせておきなさい」と放置したようですので、方針は変わっていないのかもしれません。きちんとグルが見て指導すれば良いのですが、ゴエンカ氏がそうだったのであれば今後も方針が変わることを期待できませんから、準備がある程度できた人以外はヴィパッサナー瞑想は避けた方がいいと思うわけです。ラッキーに期待して受講するのはお勧めできません。
■「悟り」なんて求めない

  • 「悟り」なんて遠いこと言ってる人はどこかフラフラしていたり、ちょっと胡散臭いことが多い。ここは、胡散臭いとまではいかないが、キレやすいのでフラフラしていると言って良いでしょう。胡散臭くはないので、そこは自制が効いているのでしょう。自制が効いている点は評価できるのでは。悟りなんて遠いこと言っている割にはフラフラ度合いが低いので、頑張っているような感じも受けます。ゴエンカ式に惚れ込んで、無宗教の皮を被った宗教として信仰を深めてゆけば、本当にある程度の浄化ができるのでは、とは思いました。ただ、色々書いたような落とし穴を避けることができればの話ですが。宗教団体には、そう言う面もあるでしょう。どんなにおかしく見えても、それで救われる人もいるわけです。どんなことであれ、実際にやってみると言う段階が先にあり、それをやってみた結果、理解をしたら最後には「手放す」と言う段階に来て、そして卒業してゆくわけです。私が違和感を感じたからと言って、他の人の行動をとやかく言うつもりはありません。それぞれに学びがあってやっていることでしょう。
  • 少なくとも自分は現時点では日本ではもう受けるつもりはありませんが、組織や指導に問題はあったとしてもそれを頼らずに受けるのであれば苗床としての場としては使える訳です。そういう観点からまた受けるかもしれませんが、今のところ受講予定はありません。それでも日本は微妙なので受けるとしたら海外ですかね。ヨガでも効果は同様だとわかりましたのでわざわざ受けない可能性も大いにあります。もともとは悟りのための瞑想ですが、99.9999999%は悟りなんて無理ですし、私が求めているのは悟りではなく「ある程度の」浄化ですので。ヴィパッサナー以外にも多くの選択肢があります。
  • いくら悟りを語ったり求めたりしても、基本的な道徳のシーラやアヒムサーができていなければそれは単に心のエゴを増大させるだけの結果になるのでしょう。いわゆる「聖者のエゴ」が拡大して、「私は聖者だ。私は悟っている」みたいなことを言い出す最悪のエゴが育つことになります。そして、自分の考えにそぐわなかったりしたらキレて怒鳴って相手を追っ払い、心の静寂を保つのでしょう。実態は宗教ですから自分たちの考え方にそぐわなければ怒鳴ってもいいと思っているのでは。であれば、誠に滑稽だと思います。ルールに従って大人しくしていれば安泰に過ごせるということであれば、実態は宗教です。上に書いたように私は宗教もOKだと思っていますので、素直に宗教だと名乗ればいいのです。宗教であれば、ルールは「宗教だから」「これが教義だから」で終わりなのです。なまじ非宗教の仮面を被っているから変なことになる。実態は宗教なのに、非宗教を名乗っている宗教が本当に多いです。素直に宗教を名乗ればいいのですよ。こんなのを見て「宗教とは無関係」とか本気で言っているのは世間知らずだけだと思いますよ。わかっている人は「あー、ここも実態は宗教か」と思って、思っても何も言わない人がほとんどだと思いますよ。
■再受講?

  • 色々と違和感はありますが、色々とわかったこともあったので、私はまたいつか機会があれば海外のダラムサラとかで受けてもいいかなと思いました。でも、ヴィパッサナー運営側が他瞑想をしている人を拒否してくるなら微妙ですが。それか、他の方式のヴィパッサナー瞑想も良いかもしれません。
  • 私の場合、ここは宗教なのに無宗教を装っている「嘘」が見えてしまうので、その嘘が見えてしまった以上、ここに深入りすることは私の心に嘘をつくことになりますので千葉のここに通うのは今の所ないですね。海外でやるとしても、再受講生用の3日間コースとかですかね。ダラムサラが日本と違うのかどうかという点に興味が少しあります。
■他のテーラワーダ仏教 論者

  • 後日、タイのテーラワーダ仏教論者のプラユキ・ナラテボー師 のセミナーを受けましたが、同じヴィパッサナー瞑想とは思えないほどスタンスも説明も違って見えました。もちろん「気付き」と言う意味においては同じなのですが、こちらは他の瞑想を否定しないですし、かなりオープンです。ゴエンカ式とはかなり別物に見えます。ゴエンカ式だけを見てヴィパッサナー瞑想があーだとはとても言えないですね。ゴエンカ式はヴィパッサナー瞑想の代名詞のようになっていますが、あくまでもゴエンカ式の瞑想がたまたまヴィパッサナーだったと思った方が良さそうです。ゴエンカ式は無宗教をうたっておきながら宗教っぽい盲目的な感じで、プラユキ・ナラテボー師は仏教バリバリの筈ですが宗教っぽくないオープンな感じです。
■サマタ瞑想のサマーディを否定していい気になっている人たち。実際はサマーディは悟りの役に立つ。

  • この種の人種がゴエンカ式には多少ながらいるような気がしました。サマーディには「物」と同一化するサマーディと非物質と同一化する概念上のサマーディがあり、藤本晃氏の本によると前者は悟りの役に立つが後者は悟りに役に立たないと言う。同書によると、サマタ瞑想のサマーディなしにヴィパッサナー瞑想で悟りを求めることは可能だがとてつもなくハードルが高く、仏教の経典にはまず「物」に対するサマーディを経てから何段階かを辿り、悟りに辿り着くという。やはり、ブッダ自身はサマーディを否定しておらず、後の解釈を行った人物がサマーディを否定しているのだとわかる。その理由は、否定することで優越感に浸れるから、と言うのが一定数あるのでは。或いは、単に無知なだけか。もちろん、私の理解が間違っている可能性もあるし後者の無知は責められるものではないが、前者の優越感は愚です。そんなことで瞑想をしても迷走するだけ。一方、確かに、サマーディの彷彿感に浸ってしまって成長が妨げられることも大いにあるので、サマーディの落とし穴に関する危険性は間違ってはいない。やはり、問題の根本原因はこのようなことを正確に教えてくれるグルがいない、と言うところに結局辿り着くのかもしれない。
  • サマーディは段階があり、最初は彷彿感があるが、次第にその彷彿感が減って行くそうです。これは私の体験でも確かにそうだと思いますし、幾つかの書籍でもそのようなことを読んだ気がします。彷彿感が減るのは後退ではなく進歩だそうです。最後には彷彿感のほとんどない統一に至るそうです。「物」に対するサマーディで彷彿感がない段階まで至った後、悟りに向かうのがブッダの説いた道だそうです。だとすると、サマーディをある意味で否定しているゴエンカ式は悟りを語りつつも本当は悟りではなく現世利益を目的としているのかもしれません。
  • 色々書きましたが、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想が悟りを求める瞑想とは言いつつも、多くの人は実は悟りなんて求めていなくて、単に楽になりたいだけだとすれば、その要求はとりあえず満たしているので、これで十分と思っているのかもしれません。本気であればこんな違和感なんてすぐに気付くでしょうから。
■初心者の長い瞑想は危険

ヨガ系の「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」に以下のようにあります。

初心者には、瞑想だけをおこなう修行法は固く禁じられるべきである。私たちの僧団では、決してこれを許さない。あなたが自分のさまざまの思いを完全に制御することができない間は、霊的生活の初期においてあまりにも多く瞑想することはあなたにとって危険である。こころを静めようとすると、禁じられた不快な思いが心中に浮かびはじめて混乱を引き起こす。これらは、あなたを圧倒してしまうことさえある。初期の段階では、瞑想に割り当てる時間は短くするのがよい。残りの時間は、仕事、奉仕、または勉学に費やされるべきである。

この発言の前提は集中系(サマタ系)のサマーディ瞑想ですが、ヴィパッサナー瞑想の指導者は違う見解を持っているかもしれません。それでも、これは示唆に富んだ発言だと思います。特に初心者は集中系(サマタ系)と観察系(ヴィパッサナー系)の違いもよくわからないでしょうし、長い瞑想をいきなりするのは危険だと思います。と言うのも、10日目に話をした何人かは明らかにこの種の混乱に陥っている事が容易に見て取れたからです。何人かはストレスフルになっていましたし、自己嫌悪に陥っている人もいました。それに対してスタッフや指導者のケアはほぼゼロで、放置です。指導者は最終日は顔を出さないですし、解散の時間になったらさっさとタクシーでスタッフもそそくさと帰宅していました。こんな状況であれば尚更、知り合いにはこんな放置するのが方針のヴィパッサナー瞑想合宿なんて薦められないのです。この日本は自由の国なので、やりたければ好きにやればいいです。それは基本です。知り合いに勧めないと言うだけのことです。

どちらにせよ、大半の98%の人はそれほど深い瞑想の境地に達することができないのですから、短い期間であればとりあえず何をやっても大差ないと思われます。やりやすいものをやれば良いのです。長い時間を瞑想して窮地に陥る危険があるとしても、ここは自由の国ですから好きにすればいいのです。

瞑想は本来神秘行に属するものなのですが、この団体は、単に表面的なストレス解消が目的なのかもしれないですね。そんな気がしてきました。そう思った理由は、奉仕者が話をしているのを最終日に聞いた時に、浄化が目的みたいなニュアンスを何人かから聞いたからです。であれば、単に葛藤を捨てるだけのことですから上記のように感情を切り離す瞑想で十分なんでしょうね。カルマの根であるサムスカーラを根絶する本来のヴィパッサナー瞑想の使い方ではないですけど、表面上の葛藤を切り捨てるためにヴィパッサナー瞑想を使うのであれば、それもまた個人の自由ですしね。「浄化」という言葉は色々と解釈できますが、このように私が判断したのはその人となりとその口調ですので、あくまでも主観的な判断です。ふわふわとしていて存在が薄い感じでしたので、上に書きましたように、葛藤をすぐに切り捨ててしまって空っぽになっている人なのかなあと思いました。別にそれを否定するわけでもなくて、物や手法が世界の各地を移動する時にその目的が変わることもよくありますから、日本に来た時に、説明は同じだとしても、その活用方法が異なってしまうのも、それはそれで文化としてよくあることですし、私としては否定もしませんし、単に興味深く眺めるだけのことです。表面的なストレス解消が目的であれば、それはそれで好きにすればいいんじゃないでしょうか。でも、瞑想のお題目としてはたいそうなことを言っていますけどね。実際はそんな実態なのでは。とは言っても、上に書きましたように、瞑想初心者は葛藤に圧倒されてしまって危険な状況に陥ることも多々あると思いますけどね。それもまた、自由の国の自由な選択で起きている喜劇であるわけです。私は気付いたことを書いているだけで、他の人に変わってほしいなどとは思わないですが、本来の目的と表面的なお題目が違うのであればお題目を変えて、きちんとストレートに表現すべきだとは思っています。表面的な葛藤をなくす瞑想です、とはっきり言えばいいのです。サムスカーラという種を燃やしてカルマで転生がどうのこうのなんて言っても、そんな瞑想はそうそうできないでしょう。あそこにいた指導者ですらそういうレベルではないことが一目でわかりますし。

■共通点は「体験」

私の内なるガイドが言うには、「体験」に基づくのであれば共通点が見えてくるだろう、とのことです。確かに、言葉や論理では違って見えても、「体験」であれば似たものが見えてくるはずです。各種の状態や認識を言葉にすると違って見えるかもしれませんが、本質はきっと同じなのだと思います。 又、よくある例えですが、精神的成長という「山」を登る道はいくつもあるので、登った先の頂上からの眺めは同じであるわけです。見た目の違いで他の手法を区別したりしますが目的地は同じなわけです。精神的訓練をしてゆけば何がしかの経験がある筈で、それこそが共通点になる筈だと思います。

ヴィパッサナー瞑想も各種ヨガ瞑想も本質はそうは変わりません。少なくとも私はそう思います。

■その後、インドのリシケシでヴィパッサナー瞑想の瞑想会を主催している人と話をしました
日本でヴィパッサナー瞑想というとゴエンカ式ですがリシケシでヴィパッサナー瞑想というと単に沈黙の瞑想を意味するらしいです。リシケシでヴィパッサナー瞑想の瞑想会を主催している人と話す機会があったのですが、「ゴエンカなんて知らない」って言われました。ヴィパッサナー瞑想を主催していてもゴエンカなんて知らないそうです。日本とはヴィパッサナー瞑想の意味するところが違うのかもしれないですね。興味深いところです。

■ゴエンカ氏から直接指導を受けたインド人の瞑想指導者と話をしました
私が千葉で受講した約4か月後、インドのリシケシでヨガを勉強した際にインド人の瞑想指導者と話をする機会がありました。そのインド人はゴエンカ氏から直接指導を受けて数ヵ月の瞑想をし、現在はヴィパッサナー瞑想のみならず各種の瞑想指導をしていました。話を聞いたところ、いくつか分かったことがありました。

  • 「どうしてゴエンカ式はヴィパッサナー瞑想と他の瞑想を組み合わせてはいけないのか?」と聞いてみました。回答としては2つ。1つはテクニカルな話で、ヨガのプラナヤーマとヴィパッサナー瞑想は手法的に同時にはできない、というのが1点。もう1点は、ゴエンカ氏は本気だったので自分のヴィパッサナー瞑想をとことん突き詰めてそれだけを集中して行いたかったので他の瞑想をしている人に入ってきてほしくなかった、という背景を聞きました。ゴエンカ式の説明で、私はてっきりテクニカルな話をしていると解釈していたのですが、どうやらテクニカルな話は重要ではなくて、むしろ、ゴエンカ氏の意図が反映されてあのような他瞑想を排除する規約になっているようですね。テクニカルな話であれば理屈でもって変わることもありそうですが、ゴエンカ氏の意図であればカリスマのゴエンカ氏が亡くなった今となっては他瞑想を排他する規約は半永久的に続きそうですね。
  • ゴエンカ氏から直接指導を受けたインド人もまた、怒りの沸点が低かった。私がいくつか質問をしたところ不愉快な表情になって苛ついて声の調子が変わり、やがては私の言葉を遮り始めましたので、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想をしている人の多くが怒りの沸点が低くてキレやすいというのは、このようにゴエンカ氏から直接指導を受けて瞑想指導をしているような人であってもそうであるのですから、多くの場合に当てはまりそうです。おそらくはゴエンカ式をすると何らかの理由で怒りの沸点が下がる可能性がある、と思った方が良さそうです。ゴエンカ式をしているのであれば怒りの沸点が低い可能性がある、とも心の片隅に止めておいた方が良さそうです。そうでないと簡単にキレられてこちらが謝意してしまいますから、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想をしている人には不用意に近付かない方がいいかもしれない、と改めて思いました。瞑想は心のピースを育てるためにしている筈なのに怒りの沸点が下がってしまってしまう人が多発しているということは、それは、手法のどこかが間違っているのだと思うわけですが、本人たちは現状に問題点を感じないのでしょうか? 不思議なところです。
■ネパールでゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想を受けたドイツ人と話をしました
上で書いた瞑想指導者と話したのと同時期に話をする機会がありましたが、この人もどちらかというと怒りの沸点が低くて、エゴが強くて、それでいてピースな環境を求めているタイプ。ピースは自らの内にあると言いつつもそのことがよく分かっていなさそうなタイプで苛つく沸点が低くてその度にピースを語っていました。めんどくさくてあんまり付き合いたくないタイプです。
自分がゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想を受けたことを誇りにしているらしく、ゴエンカ式は最も厳格で厳しいんだみたいなことを他の人に自慢していました。瞑想って自慢するようなものじゃないと私は思うんですけどね。瞑想を自慢している時点で既に瞑想のステージがあんまり進んでいないことを自ら暴露しているようなものです。上にも書きましたが、精神世界(スピリチュアル)の初心者によくありがちな落とし穴で、自分があたかも凄いような錯覚を感じてしまうのは、それが錯覚だとしても初心者はなかなかそれに気付けないものです。
ゴエンカ式の経験者の中にはこのような精神錯乱者が度々いるので、きっと多くの人がうまく瞑想できずに10日間を過ごして、最終的に「俺はやり通したんだ」というエゴが拡大したり、あるいは、精神錯乱になったり、あるいはその混合タイプになったりするのでしょうね。
上にも書きましたが、ある程度瞑想が出来てからでないと10日間なんていう長い瞑想はしない方がいいと思うんですけど。エゴが駆り立てて「チャレンジ」する人もいるみたいですけど、そんな「チャレンジ」なんて言ってる時点で瞑想初心者ですから辞めておいた方がいいと思います。このドイツ人みたいにチャレンジの結果を誇りにしてエゴが拡大でもしたら逆効果ですし、エゴ拡大だけならともかく精神錯乱したら日常生活に支障が出ますしね。
私がそのインド人に「私も受けたよ」と言ったら自分のプライドが傷つけられたのか何なのか敵意のある視線と苛ついた表情、それに突き刺さるような思念波を送ってきていきなり頭痛がしました。余計なことを言わずに「凄いですねー」とか言って適当に流しておけば良かったですよ。なんでちょっと話しただけでその後もことあるごとに恨みの視線と攻撃的な思念波を受けなきゃならないのか。こっちが被害者ですよ。ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想の経験者とはあまり関わり合いもたない方がいいなあ、と改めて思いましたよ。私も自分がヴィパッサナー瞑想経験したなんてあまり他人に言いたくなくなってきます。

■インドやネパールでは宗教が生活に根付いている
インド周辺国では宗教が生活に根付いていて日本で言うところの宗教的な概念は薄く、例えばインドはヒンドゥー教徒が多いと言われていますがヒンドゥー教は日本で言うところの宗教団体はなくて生活の一部であり神道のようにあって当たり前のものです。ネパールやミャンマーも宗教が根付いていますから、それらの国の人がゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想を宗教ではない、というのは分からなくもありません。しかし、日本から見たらそれは原始仏教でありますから、明らかに宗教なわけです。日本の人が神道を道徳的なものとして理解している一方で海外から見たら興味深い宗教であるのと同様の構図なのかなと思います。ふと気付けば、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想をしている人はゴエンカ氏の言葉を真に受けて「宗教ではない」と言っているようにも思えますので、「原始仏教だから宗教でしょう」と言い返すのは大人気がないのかもしれません。とりあえず「そうですか」と答えておけばいい気もします。

私は宗教を否定しておらず、むしろ肯定していますので、ここが宗教なら宗教でもかまわないのです。

少し勉強すればここが原始仏教だと気付く筈なので、もしそれに気付かずにゴエンカ氏の言葉を真に受けて宗教ではないと思っているのだとしたら(そんな人は稀だと思いますが)やっていることと言っていることが合っていないということになりますから、行動と思考が分離した状態ではいくら瞑想をしても一定以上の境地に達することはないのではと推測いたします。思考と行動が一体になって初めて高い境地に達するのだと思います。原始仏教の時代には宗教という概念は希薄でしたし、人々に強制もしておらず、自由意思で修業をしたわけですから、強制や脅しがないという点では良いのですが、原始仏教を基本として精神的修業をする団体ということであればそれは宗教ですよ。堂々と宗教を名乗ったら良いと思います。最近は宗教を名乗らない宗教が多いですよね。

■サマーディ(集中)瞑想とヴィパッサナー(観察)瞑想
(ゴエンカ式ではなく)テーラワーダ仏教(スリランカ上座仏教)の識者が書いた「沙門果経」(アルボムッレ・スマナサーラ著)を読んだところ、当時のブッダが置かれていた状況およびサマーディ瞑想(集中によるサマタ瞑想)とヴィパッサナー(観察)瞑想の位置付けがよく分かりました。少し引用します。

当時はサマーディ瞑想で禅定に達した修行者が、輪廻転成を乗り越えて解脱に達するためにヴィパッサナー(観察)瞑想に入ったのです。現代ではそのような回り道はしないで、ヴィパッサナー瞑想を実践しています。ヴィパッサナー瞑想だけで、集中力やさまざまな智慧など、解脱に必要な条件はそろうのです。「沙門果経」(アルボムッレ・スマナサーラ著)より

ゴエンカ式のところでマネージャーにこの辺りのことを聞こうとしたらキレられたのですが、こちらのテーラワーダ仏教はとても理性的っぽい感じで好感が持てます。こちらが本物な気がします。

■生命力(パワー)が上がれば集中力(サマタ系)も観察力(ヴィパッサナー系)も高まる
その後、再度のクンダリーニ経験(詳しくはナーダ音の記事を参照)をしたりインドのリシケシでクリヤ・ヨガを行ったところ、この認識に至りました。

ここで言っている生命力(パワー)とはエゴのことではなく、根源から湧き上がってくる力、基本的な生命力のことを言います。観察系瞑想と集中系瞑想があると言われていますが、それは瞑想の2つの側面をそれぞれ表しているだけであって、体のパワーが高まれば観察も集中もどちらも高まるし雑念も消えるのかなと。

絶対的な視点から見ると観察系瞑想も集中系瞑想も同一で並列ですが、個人から見た相対的な視点からすれば個々の性質に応じてどちらがやりやすいかという方向性があるので、相対的には観察系瞑想と集中系瞑想で良しあしが発生するのかなと。そこで言う良しあしとは人それぞれ向いているか向いていないかという個人的な視点だけであって、向き不向きあるいは好みの問題で良しあしが発生するが、絶対的にはどちらも同一なのかなと。「こっちが良い」とか言うと、あたかももう片方が悪いかのような印象を与えてしまいがちですが、そこで言う良しあしとは、単に個々の指向を言っているだけなのかなと。たとえば、もしかしたら集中が苦手ならば観察系瞑想が得意かもしれないし、そうなれば観察系瞑想が良いとその人は思うかもしれないが、集中が苦手だからこそ集中系瞑想をすべきかもしれない、という面もある。逆もまたしかり。人によっては片方だけやって一生を終えるかもしれないし、両方やるかもしれないが、瞑想は内面で起きていることなので、集中瞑想やっていても観察は高まるだろうし、観察瞑想やっていても集中が高まるでしょうから、どっちもあまり大差ないのかなと。テクニックとしては色々あるのでそれぞれ良しあしはあるだろうけれども、概念としては観察系も集中系も視点が違うだけなんだと理解しました。

生命力(パワー)っていうのはクンダリーニだったり他のものだったりするようですが、どちらにせよ、目的は観察や集中ではなくて、観察や集中はアクション(行動)であってHow to(どのように実行するか)だからテクニックの部類なんですね。目的はパワーを高めることなのかな、と。パワーというと語弊があるかもしれないので、生命力を高める、と言った方が分かりやすいかな。生命力を高めることが目的で、その手段として観察瞑想や集中瞑想がある。

もっと言えば、その根本はと言うと気脈(ナディ)開発なのかな、と。そんな気がしました。見方にもよりますが、気脈(ヨガで言うところのナディ)開発の観点からすればいろいろな瞑想の本質が見えてくる。結局のところ想念観察だとか観察瞑想とか言うのは結果というか現象や経験のお話であって、大切なのは気脈(ナディ)を開発してエネルギーアップすることであり、エネルギーアップすれば自然に雑念も消える。とある瞑想では想念観察とか全く言わないで気脈(ナディ)の開発に焦点をフォーカスしていたりします。

元気になればネガティブが消えるのは誰しもが経験して知っていることだと思いますが、それが高度なレベルで起きたときに覚醒だったり神経験がきっと起こるのであって、想念観察したり観察瞑想したからと言って覚醒するわけでもないのかな、と。重要なのは元気になること、というシンプルな点が実はかなり奥深いのかなと。

集中系(サティ)とか観察系(ヴィパッサナー)とかに長らく惑わされてきましたが、最近、本質は結局ここなのかな、という気がしてきました。


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トピック: スピリチュアル