この「心の無」の状態を体験する前は、ヨーガで言うところのプラティヤハーラ(制感)のことがいまいちピンと来ていませんでした。プラティヤハーラとは、簡単に言えば以下のようなものです。
プラティヤハーラは「向けて集める」の意味。出て行こうとする心の力を引き止め、それを感覚の奴隷から解放することです。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)
無の体験をして、このことがよく理解できるようになりました。 昔は、このこと自体は頭で理解できるのですが、それが現実として自分ができている感覚があまりありませんでした。ヨーガでの段階にはプラティヤハーラ(制感)、ダーラナー(凝念、集中) 、ディヤーナ (瞑想)、サマーディ (三昧)とあるのですが、それぞれの説明はここに詳しくは書きませんけど、無の体験をする前はその違いと状態がわかるようなわからないような、何とも微妙な状態でした。
そこで、この無の経験をしたら、これこそがプラティヤハーラ(制感)なのかな、と思いました。もしかしたらそれはダーラナー(凝念、集中)と言ってしまっても良かったのかもしれないですけど、これら4つは連続的で、基本的には同質のもののようです。
■プラティヤハーラ(制感)、ダーラナー(凝念、集中) 、ディヤーナ (瞑想)、サマーディ (三昧)
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」から引用します。
インドリヤ(感覚器官)は外界に向かって働いていて、外界の対象に接触する。それらを意識の支配下に置くことをプラティヤハーラ(制感)という。自己に向けて集める、という意味である。心をハートの蓮華、または頭の中心に集中するのをダラーナー(凝念、集中)と言う。
この定義からすれば、以前に書いた
「3. 呼吸に意識をすることで心のお喋りを止めて呼吸の観察に戻すことができる段階。」はプラティヤハーラ(制感)
「4. 呼吸だけを意識して心のお喋りがない状態を最低5秒間は継続できる段階。」はダラーナー(凝念、集中)
と言うことになりますね。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの同書によると
ダラーナーの1点集中を基礎として、ある種の心の波が生じる。これらは他の種類の波に飲み込まれることなく、他の全てが退いてついに消えて行く間に、徐々に顕著になって行く。つぎに、これらの波の数々は消えて1つに席を譲り、たった1つの波が心に残る。これがディヤーナ、瞑想である。
全ての心が1つの波、1つの形になった時、それがサマーディと呼ばれる。ただ、その思いの意味だけが存在する。
とあります。これは、上に書いた
「5. 思考の波が十分に静まる、あるいは、意思の力で思考の波を沈めて体全体が暗闇の静寂に包まれる段階。」
このことでしょうか? スワミ・ヴィヴェーカーナンダの説明とも少し違う気もします。 瞑想のやり方が間違っているのでしょうか? 瞑想のためには「対象」となる物あるいは概念がないといけない、みたいな話をヴェーダ系の先生から聞いたことがあるので、もしかしたら、私が対象を何も設定していないからこのような感じになるのかもしれません。だとすれば当然の結果というか、これはこれで良いのかも? このような時にグルがいないと微妙に困りますね。可能性としては、何かが間違っているからナーダ音が聞こえてきた、と言う可能性も一応あることを頭の片隅に置いておきたいです。精神世界は色々な落とし穴がありますから、常に気をつけていないといけません。
■プラティヤハーラ(制感)、ダーラナー(凝念、集中) 、ディヤーナ (瞑想)、サマーディ (三昧)は本質的に同じ?
これら4つの段階について、ヨガの根本経典である「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」にハタヨガの視点から関連する記載がありましたので、参考までに引用します。
(4章2番の解説) ラージャ・ヨガには8つのステップがあります。〜(中略)〜 ハタヨガの視点によると、プラナがスシュムナにある一定の時間滞在しているときプラティヤハラ(制感)と呼ばれ、もう少し長く滞在するとダーラナの集中と呼ばれることを意味します。 さらに長い間だと、それはディヤナ(瞑想)と呼ばれます。 さらに長い期間の場合、それはサマディ(三昧)と呼ばれています。
ここでスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」に戻ると、以下のようにあります。
もし心がその中心に12秒集中することができるなら、それはダーラナであり、12のそのようなダーラーナ(凝念、集中)(約2分半)はディヤーナ(瞑想)であり、そして12のそのようなディヤーナ(瞑想)(約30分)は、サマーディであろう。
ハタヨガ的にはプラナの制御、ラージャ・ヨーガ的には心の制御と言う視点の違いはあるものの、これら4つの違いは基本的に時間の長さと言う点が興味深いです。
感覚的には、ナーダ音はプラティヤハーラ(制感)を基礎としてダーラナー(凝念、集中) を超えたあたりで聞こえて来るのかな? と言う気がしました。そう言う意味では、一般的に言われているようにディヤーナ (瞑想)で聞こえる、と言っても差し支えないのではないかと、そんな気もします。
ちなみに、「Meditation and Mantra」にはこれらの区別について以下のようにあります。
訓練されたヨギにとって、感覚の撤退(プラティヤハラ)、集中(ダーラナ)、瞑想(ディアーナ)、超自然状態の始まり(サマディ)の区別はぼやけている。瞑想に坐るとすべてのプロセスがほぼ同時に起こり、 非常に迅速に瞑想状態になる。
と言うことで、割と同質のものであると読み取れます。説明のためあるいは修行者にとっては段階を踏んで練習してゆくわけですね。
■ジャダ・サマーディ(jada-samadhi)とラヤ・サマーディ(laya-samadhi)
「タントラ・ヨーガ瞑想法」(スワミ・ジョーティルマヤナンダ著)には上で私が体験した静寂の暗闇について、2つの似た状態について記述がありました。
- 「古来この『無・意識』の世界はジャダ・サマーディ(jada-samadhi)として知られており、ヨーガではタマスの領域とも呼ばれている。これは肉体上、精神上の、激しい混乱の原因となる。この段階が最も危険である。この段階では、いとも簡単に『無・意識(not-consciousness)』の中に落ち込んでしまう恐れがあるからである。この段階では、先へ進めば進むほど危険性が増大する。そして実習者は、よくしばしば、この『無・意識』の中に落ち込んでしまう」
- 「次の段階の『無・意識』は、ラヤ・サマーディ(laya-samadhi)と呼ばれ、心臓の鼓動がとまってしまう事態も起こり得る。この段階では、シンボル(帰命神の像など)が自動的に浮かびあがってきて、その像が間断なく保持されているかどうかと言うことが、決定的なポイントとなる。」
前者が落とし穴だとして、後者にしてもラマナ・マハルシによればそれすらも求道者を惑わすまやかしであり、どちらも通過点のようです。私のがどちらであったとしても、静寂の暗闇の経て初めて以下に記載するプラティヤハーラの感覚が掴めてきましたので、どちらにせよこの状態にずっと逃げ込んでいてはいけないのはそうなのでしょう。だとしても、この段階はきっと必ず通るのかなと思いました。ただ、私の場合はほんの短い時間ですのでサマーディという名前がつくほど大げさな体験ではないですが。どちらにせよ止まってはいけないという点に関しては同じなので進めば良いだけのようです。