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究極の静寂、ラマナ・アシュラムとアルナーチャラ山

2019-02-04
トピック: インド観光

ラマナアシュラム(チェンナイ近郊ティルヴァンナーマライ)に到着。
想像以上に不思議な雰囲気でびっくりしました。

第一印象は「(努力ゼロの)究極の静寂」ですね。ファンタジーっぽく言うなら「天界へのゲートウェイ(ポータル)が開いている場所」とでも言えますかね。ここにシバ神やパールヴァティなどの神様が出てきても何ら違和感ありません。



ヨガや瞑想でのサマーディは「努力有り」のサマーディから上級である「努力なし」のサマーディまで段階がありますが、この雰囲気は上級の「努力なし」の方なのかなと漠然と勘ですけどそんな気がしました。この雰囲気を味わえたのは貴重です。この雰囲気は地球上で私が知っている中ではとても特殊で、なかなか同じ感覚の場所はないように思えますので遠路遥々無理して来てよかったです。

ここは聖者ラマナ・ マハルシのために作られたアシュラムですが本人はアシュラムに興味がなく周囲の人が勝手に作ったという場所だそうです。アシュラム創立が1922年、マハルシ死去(マハーニルヴァーナ)が1950年だそうですから亡くなって70年近く経ってもエネルギーを感じます。

ここは「火」のようにわかりやすい熱のエネルギーが充満しているという感じではないです。世界各国の聖地では火に属するエネルギーを感じることも多いですけど、火の属性ではないですね。もっと根源的な、私が知っている「(漆黒の)無」よりも遥かに深くて想像もつかない深淵まで落ちてゆきそうな、少し恐怖も感じるくらい深い「無」がここにはありますから、感じやすい人は怖いと思うかもしれません。最初は静寂だと思いましたけど、じっと見ると無の深淵がある気がしました。そう言えばどこかの本で似たような究極のサマーディの解説を読んだ気もします。それって、こういう無の深淵の雰囲気のことだったのかもしれないと漠然と勘ですけどふと思いました。最終的な状態へ辿り着くために超えなくてはいけない壁といいますか。

でも、基本は静寂なので瞑想はしやすいと思います。ただしクッションはなくて石の床ですので意識はリラックスしていても先に足に限界がきそうですが。

自分と比べるのも聖者に失礼ですけど、ラマナ・ マハルシのいる境地は私よりも遥か遠く先に達していると思いました。まあ、他の書物でも無の深淵と向かい合う話を読んだ気もしますし、そのあたりは私はまだまだなのでしょう。

ちなみに、アシュラムの宿泊は予約が一杯だったので近くに泊まります。アシュラム内部は写真禁止なので写真は門だけです。

ここにいると自然に「思考の波」が何かに吸い込まれてゆきます。思考の波こそが自我の元で、自我は一般的には「私」と言われているものですがヨガ哲学では自我は思考の機能の幻影みたいなものであって魂のような意味合いでの「私」とは異なると説きます。その自我の元になっている思考の波が吸い込まれるものですから、自然に自我および「(一般的な)私」という概念が消えて行ってしまいます。そこできっと恐怖が起こるわけですね。自分というものが消える恐怖。理屈で言いますと「自分」というものの消滅はきっと成長の途中で必ず通過する地点ではあるが、それは実はとても恐ろしいものかもしれないと思いました。ここにいるだけでその感覚を垣間見れる気がします。

「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」によると「サマーディに入ろうとするときに起こる恐怖と体の震えは、わずかな自我意識がいまだに残っているためである。だが、自我が何の跡形もなく完全に死に絶えるとき、人はただ至福だけが広る純粋な意識の空間にとどまる。そして震えも消え去るのである。」とあります。「ヨーガの極意」(小山 一夫 著)でもこれらのことが解説されていました。自我が消えようとする時に恐怖を感じるが、サマーディによって自我が消え去ると恐怖もなくなり至福に至る、ということだと思います。私はサマーディとかそういうレベルではないですけど、方向性として。

■アルナーチャラ山麓の洞窟等


■アルナーチャラ山頂は閉鎖中 (2019/2現在)
町中央の巨大テンプルの裏にあるマンゴーツリーケーブの方から登り始めましたが、どうやら今は頂上に登ってはいけないようです。道が閉鎖されています。中腹の洞窟などは行けます。

6ヶ月前に2人が登った時に滑って落ちて骨を折ったのが閉鎖の原因だそうですが、来年にはまた登れるようになるみたいです。無理に登れないこともないですが、禁止されている状態で登るのも何だかな。

ということで、シバ神の山に登るのは中腹までで、頂上はお預けのようです。



この山は裸足だとばかり思っておりましたが洞窟以外は靴OKで、頂上にも靴でいいと地元の人は言っています。事故の影響で安全第一になったのですかね? 以前は知りませんけど。

素足で登るにしても中腹にあるラマナマハルシが7年住んだ小屋に靴を置いて往復すれば良さそうに思いました。

→2回目登ったら一部の現地住民が靴置いてけ&10ルピー保管料のアピールしていましたが無視



ラマナアシュラムから登ってくる外国人の数割は裸足ですね。そういう雰囲気なんですかね。

途中、猿がいましたけど人間への警戒が薄くて手渡しでバナナの皮食べていました。せっかくなので私も手渡ししてみましたが足元で普通にバナナの皮食べていました。これはインドのいくつかの聖なる山で起きていることで、ここよりも更に警戒ゼロの猿がいるのはたしかインド西部のジュナーガドにある山に登ってジャイナ教の神殿見に行った時はここ以上に猿が礼儀正しくてきちんとお座りして食べ物をじっと待って順番にもらっていましたし、猿なのにどこか顔つき品があって背筋が伸びていてびっくりしましたよ。それと比べると何ですが、それでも警戒心の希薄な猿がいるのはここが聖なる山という印だと思います。

一方で、シバ神の聖なる山とかでも凶暴で人の荷物やバナナや食べ物を奪いに来るような猿がたむろしていたりもします。同じシバ神の山でも大違いですね。

■思考が消え去る場所
思考の波が治まって静かになることでリラックスできる場所は世界中にいろいろあって、ここもその1つです。ヨガでも同様の効果があったりします。

でも、恐怖を伴って自我そのものが(自動的に、意図せずして)溶けてゆく感覚は他ではあまりありません。ここが特異なのはその点においてです。ここにいるだけで内面の変化が味わえる気がします。

聖者と共にいることはとても恐ろしいことだ、というような文節を読んだことがあって、それは指摘の鋭さという意味合いで今までは理解していたのですが、それよりもむしろこの自我が溶けてゆく感覚の方が恐怖な気がします。それに比べたら指摘の鋭さなんて所詮は頭の良さだったりもするので、本質的ではないのかもしれません。と言うのも、本をパラパラと立ち読みしたら、ラマナ・マハルシは指摘するというよりも基本的なところを何度も説き続けているので、聖者の語りとは本来こういうものなのかもしれないと思いました。指摘してどうこうというのは占い師や霊能者やサイキックのお仕事で聖者のお仕事ではない感じですね。

神というものがいるとしたら、光(太陽)だけでなく闇(あるいは月)もある存在なのでしょう。その方がしっくりきます。神の領域は「意識が飛ぶ」というか深い眠りの奥底にあるような、深い深淵の無を性質として持っていると思います。簡単に言うと「神にも光と影がある」みたいに言えるのかもしれないですが、その光も影もとても深くて、光は全てを覆い尽くす光だし、闇は全ての「私」や意識を消し去って「無私」にしてしまう、人によっては恐ろしい力なのかもしれないです。

よく「無私」なんて気軽に言いますが本当の無私は無の深淵に落ち込んでいって私というものが消え去る怖さがあるものなのかもしれないです。完全に私が消えれば悟りとかになるのかもしれないですが、そんなのはそうそう起きないでしょうから悟りなんてあまり考えてもしょうがないのかなと。悟りが来る時は勝手に来るでしょうし。光はヨガとかだと太陽やピンガラで影は月やイダとか呼び方はいろいろあるけれども本質はどれも似たこと言っている気がしますね。

女性/月/イダ/女神のエネルギーが本質的には無の深淵で自我が溶けてゆく感覚だとすればここラマナアシュラムのエネルギーの本質は女神のエネルギーということにもなるのかもしれないですけど、私はまだ短期滞在ですし、今のところ女神の面を多く見ているだけで、実は太陽のピンガラの面も多々あるのかもしれないですけど。聖者ですから両方の性質があっても良さそうなものですけど聖者といえども個性はあるので男性でも女性的な雰囲気の男性の聖者がいても不思議ではありません。



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