・心の平穏を得るため。
・いわゆるゾーン(ZONE)と呼ばれる状態にまで集中力を高めて仕事の効率を劇的にアップするため。
・宗教的には悟りが目的ですが、ビジネスにはリラックスによるストレス解消とゾーン(ZONE)が目的で悟りは不要。
■瞑想とは?
・基本は「集中」。いわゆるサマタ瞑想。
・応用は「観察」。いわゆるヴィパッサナー瞑想。いわゆるマインドフルネス瞑想。基本の集中に加えて観察を加える。
・いわゆるゾーン(ZONE)に入る時は集中が極限にまで高まり、集中の対象と自身の心(マインド)が一体になり、集中の対象に関する物事が詳細に理解できるようになる。いわゆるサマーディ(三昧)の初期の段階。仕事での課題に対する理解力及び判断力が格段にアップする。
・サマーディを更に極めると悟りにまで繋がるが、仕事の効率アップのためのゾーン(ZONE)体験にはそこまでは不要。
・ヴィパッサナー瞑想を近代化して悟りなどの宗教色を消した上でビジネス分野で使いやすくした瞑想がマインドフルネス瞑想。
・ヴィパッサナー瞑想は広義では観察瞑想。狭義では特定の流派の瞑想を意味したり原始仏教のブッダ瞑想を意味します。コンテキスト次第です。日本ではゴエンカ式が有名ですがヴィパッサナー瞑想と言うと基本は単に観察瞑想のことを意味します。ヴィパッサナー瞑想の由来は原始仏教のブッダ瞑想ですが、流派の瞑想を意味することもありますので混乱があります。
■座り方
古典的には足をクロスさせて胡座(あぐら)を組む。東洋風。
西洋風は椅子に座る。どちらの場合も重要なのは背筋をまっすぐ伸ばすこと。
西洋風の場合は足を組まずに足は平行にして膝は90度近くに曲げる。膝よりも背筋をまっすぐにする方を優先する。
どちらの場合も頭は背骨の上にちょこんと乗せる。
西洋風の場合は椅子の背もたれに寄りかからない方が良い。
■基本的なやり方
集中から始める。手法は数多くあります。
集中瞑想(サマタ瞑想)の場合は何かに集中する。例えば眉間やハート。その際、古典的ヨガ瞑想ではオームというマントラや(持っている場合は)個人的なマンドラを唱える。マーラーという数珠を使ってカウントする流派もあります。オームで瞑想する場合は吸う息でオーム、吐く息でオームを心の中で唱えます。
ヴィパッサナーは流派によってまちまち。先に集中(サマタ)瞑想をしてからヴィパッサナーに入る流派や最初から観察(ヴィパッサナー)瞑想をする流派もあります。
マインドフルネスも流派によりますが、簡単な方法としては、息を観察する瞑想があります。座ってただ息をずっと観察するだけですが、それでも十分効果があります。
■最初は難しいです
瞑想しようと思って座っても、最初は雑念が次々に出てきて瞑想なんて出来ないでしょう。瞑想初心者にはそれが普通です。心配する必要はありません。
流派によっては瞑想初心者に長い瞑想をさせるのを禁止していますが、それは、瞑想初心者が長い瞑想をすると雑念に圧倒されてネガティブな思いに押し潰される危険性があるからです。どの程度が長い瞑想になるのかは人によって異なりますが、初心者は最長20分を目安にすると良いと思います。初心者は5分も座っていられないと思いますのでまず座ってみて、雑念に圧倒されそうになって耐えられなくなったらすぐに瞑想を止めるくらいでも最初は良いと思います。最初は5分でも十分です。
流派によっては、初心者には瞑想よりも奉仕(ヨガでいうカルマヨガ)を重視しているところも多くあります。初心者が瞑想できるだけの下地を作るために無私の奉仕をすることで心の中を落ち着かせる効果があります。無私の奉仕をすることで心が落ち着いてくれば、やがては瞑想できる時間も長くなってゆくでしょう。
あるいは、ヨガのアサナ(体操)を行うのも効果的です。もともと、ヨガのアサナ(体操)は瞑想の準備の段階として位置付けられていますので、そのままストレートに瞑想の準備になります。このあたりはアシュタンガ・ヨガ(流派の名前ではなくて、パタンジャリのヨガ・スートラに記載されている八支則のこと)に記載されている8段階の話になります。詳しくはそのあたりを調べていただけば良いですが、あまり難しいことを考えずとも、世間一般で体操と思われているヨガのアサナ(体操)は瞑想のための準備段階の1つだと理解すればここでは十分です。
■雑念とは戦わない
瞑想中に雑念が出てきても、戦わないのが基本です。雑念を否定すると雑念が新たな大きな雑念になって襲いかかってきます。瞑想中にはトラウマも現れるでしょう。それも自然なことです。きちんとした瞑想の先生であればこの辺りのことを理解している筈ですので、雑念がすぐに湧いて一人での瞑想が難しい場合はグループ瞑想が効果的です。
■次第に雑念が減ってゆく
ヨガのアサナ(体操)をしたり奉仕(ヨガでいうカルマヨガ)をしているうちに心が静まってゆきます。心が静まることにより集中や観察ができるようになってゆきます。
それ以前は、雑念が抗し難い力で頭を支配し、瞑想すると言うよりは雑念に心を弄ばれているかのような状態になることが多いです。やがて雑念の力が弱まってゆくと心が雑念に勝てるようになります。雑念が浮かんできても、意思の力で心を制御して、雑念に心が支配されないように、心が勝手に動くのを許さないように制御できるようになります。この状態で初めて、集中や観察ができるようになります。例えば眉間であるとか、あるいは、呼吸に集中することができるようになります。雑念が多いと瞑想中にあれこれ思いを巡らせて頭を使ってしまいますので疲れてしまっていましたが、雑念が減ることにより瞑想でくつろぐことができるようになります。雑念に心を奪われないようにして眉間や呼吸に集中することで、心が休まり、頭を休めてくつろぐことができるようになります。
ここまで来れば、瞑想の楽しさを知ることが出来る筈です。それまでは苦しいですが、楽しく感じる状態に達するための方法として、おそらく一番簡単なのはヨガのアサナ(体操)をすることだと思います。奉仕(カルマヨガ)も良いと思います。この状態になる以前は集中にせよ観察にせよ雑念との戦いですのでかなり苦しいですが、それをやり遂げるだけの意義はあると思います。
■基本は、毎日
伝統的には、瞑想は朝6時前が一番効果的とされています。それと夕暮れ時も効果的です。就寝前も深い眠りのために効果的です。
■近代的な瞑想
瞑想状態を作り出す効果的な音楽が数多く出ていますので好みに合ったものを探すのも良いと思います。特に初心者には助けになると思います。音楽だけのものや、音声の入った誘導瞑想などもあります。これらの音楽は自転車を練習するときの補助輪のようなものだと考えると良いと思います。最終的には自分で瞑想できるようになるべきだと思いますが、特に初心者には助けになると思います。一部のCDは強制的に瞑想状態を作り出すために、自分のキャパシティを超えて瞑想状態になってしまうことがありますので注意が必要です。とは言いましても、連続してずっと聴いたりしない限りは市販されているものは基本的に問題ないとは思います。
■20分の瞑想があっという間になる
慣れると20分くらいの瞑想はあっという間に感じられるようになりますので時間を延ばします。
■色々試してみましょう
瞑想の手法は色々あって、人によって合う合わないがあります。色々試すと良いと思います。
■集中瞑想(サマタ瞑想)
集中瞑想では、雑念が出てきたら半ば強制的に集中ポイントに意識を戻します。眉間であれば眉間に戻します。ハートに集中すると決めていたらハートに戻します。雑念で集中が途切れても、途切れたと気付く度に何度も何度も意識を集中ポイントに戻します。上に書きましたように、最初は苦しいですが、雑念が減ってきて、心の制御が容易になるにつれ瞑想でくつろげるようになります。
■簡単なマインドフルネス瞑想(ヴィパッサナー瞑想)
息を観察する方法が簡単です。息を吸っている、吐いている、と言う状態を常に観察し続けます。雑念が上がってきたら集中瞑想(サマタ瞑想)と同じように意識を息の観察に戻します。
■マインドフルネス瞑想(ヴィパッサナー瞑想)のためにもある程度の集中は必要
集中瞑想(サマタ瞑想)と観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネス瞑想)は初歩的なところでは実はさほど違いがありません。どちらもある程度の集中を基礎として、どちらもある程度の観察は行います。特にビジネス向けのマインドフルネス瞑想であればこのあたりは顕著です。言い方の違い、流派の違いだと思っていれば十分だと思います。基本はどちらも、ある程度の集中とある程度の観察を行います。それが瞑想の基礎です。
■変容意識に囚われないように
瞑想を続けるうちに頭の中に特殊な状態が生まれてくることがあります。古典的には、頭の中で何か起こっても基本は無視をします。それは重要ではないからです。イメージが見えたり何か声が聞こえる気がすることがあるかもしれません。多くの場合は心が幻想や幻聴を作り出しているだけで、それは記憶を元にしていることが多く、瞑想を続けるうちにやがてその経験は消えてゆきます。
■心に惑わされないように
瞑想していると、心が自分自身を騙す時があります。「私はとてもよく瞑想できています。無の心になっています。無限と一体になっています」と、心が貴方に語りかけることでその気になり、初心者はすぐに騙されてしまいます。心配はいりません。これは初心者によくあることです。このような意識が心に現れたら、それが本当かどうか確かめる簡単な方法があります。「貴方は、とても平和で幸せですか?」本当によく瞑想できているならば貴方は必ず幸せです。幸せでないのならば、何かが間違っているのです。それと同時に、エゴが拡大していないかも確認してみてください。瞑想が進むにつれ、他人の言葉で害されることが少なくなってゆきます。一見幸せになったと思っていても、他人との関係性ですぐに幸せが消えてしまう場合は、これもまた、何かが間違っているのです。本当の幸せは他人に左右されない永続的なものです。瞑想をするにつれ、「条件・前提のある幸せ(その条件や前提が消えたら幸せではなくなってしまう)」から「条件・前提のない幸せ(常にある至福)」へと変わってゆきます。
■瞑想しすぎで怒りの沸点を下げないように
初心者のうちから瞑想をしすぎて、怒りの沸点が下がってしまった人が稀にいらっしゃいます。これは、本人は瞑想に上達したと思っているのですが実際にはそうではなくエゴが拡大した状態ですので本人も周囲も不幸です。特に最初は、初心者のうちは不快感が瞑想中に現れたらすぐに瞑想を中断します。これは重要です。
■無理をして継続しない
「ヨーガとこころの科学(スワミ シバナンダ 著)」には以下のようにあります。
頭痛が起きたらすぐに精神集中を中止すること。無理をして継続するのは良くない。
■瞑想の3段階
最初、「苦」が出てきます。それは苦しいものです。
次に、「楽」が出てきます。それは楽しいものです。
次に、「苦でもなく楽でもない感覚(無知とも言われる)」が出てきます。それは重いものです。
3つとも、やがては消え去ります。消え去った後に、絶対的な至福が現れます。瞑想中だけでなく常に心が晴れやかで平和な状態が継続するようになります。
これは、1回の瞑想で全てを体験すると言うよりは、長く瞑想を続けるうちにこのような状態をそれぞれ通過する、と言う種類のものです。
最初、瞑想を始めてすぐは苦しいです。やがては瞑想が楽しくなってきます。ビジネス向けのゾーン(ZONE)体験であればこの「楽しい」段階以降が必要になります。瞑想が楽しいと言うことは雑念が減って集中できるようになったと言うことであり、仕事において集中力や判断力が高まるにつれて成果が格段に向上するでしょう。
瞑想にせよゾーン(ZONE)体験にせよ、楽しかった経験がやがては普通になってゆきます。感情の高まりなしに普通に集中できるようになります。ここで、昔体験した「楽」の経験がなくなったからと言って後戻りしたわけではなく、より微細な「無知(苦でもなく楽でもない感覚、重い感覚)」を解消する段階に来ていると言えます。「無知」も解消されれば、更に集中できるようになります。仕事も集中できて判断力も高いですが、もともと「喜び」の段階で経験していたゾーン(ZONE)体験のように強い喜びは無くなっています。喜びが無くなっても後戻りしたわけではなく、この段階で「無知」が消えるに従って次第に、更に絶対的な至福が現れてきます。喜びの種類が変わってゆきます。
「苦」は原因があって苦しみがあった。「楽」は原因があって楽しみがあった。「無知」は原因があって暗闇の中に落ち込んでいた。それらが解消されると、絶対的で常に存在する至福が自らの中に現れます。
ビジネスのゾーン(ZONE)体験では「楽」の段階がフォーカスされており、仕事の効率アップおよび判断力アップ、そして従業員のモチベーションアップのためにはゾーン(ZONE)に入ることはありだと思います。やがてはそのゾーン(ZONE)体験者が次第に次の段階へと進むにつれて「楽」が無くなってゆきます。瞑想に理解のない人が見たらモチベーションダウンと判断するかもしれませんが、実際のところそれは成長であるわけです。やがて「無知」の段階を通り過ぎれば絶対的な至福が現れてきます。ただ、ビジネス向けのマインドフルネス瞑想でそこまで達成できるかどうかはわかりませんが。マインドフルネスでは基本的なストレス解消と、ごく一部のセンスの良い人がゾーン(ZONE)を使う、と言うくらいではないでしょうか。
■瞑想の禁戒
瞑想中の人を驚かせてはいけません。瞑想中の騒音や大きな音は精神に致命的なダメージを与えてしまうことがあります。
■ゾーン(ZONE)の禁戒
意識がゾーン(ZONE)に入ることにより集中力および判断力が高まった際、気をつけないといけないことがあります。それは瞑想と同じ状態ですので、周囲の人はゾーン(ZONE)に入っている人を驚かせてはいけません。瞑想と同じく、ゾーン(ZONE)に入っている人を驚かせてしまうと精神に致命的なダメージを与えることがあります。仕事においては、瞑想やゾーン(ZONE)に対する理解のない職場でゾーンを行うのはとても危険であると言えます。ゾーン(ZONE)に入っていると集中力が極限にまで高まって意識が仕事にのみ向いていますから周囲の呼びかけにも答えないことがあります。それを見て「無視している」とは考えないでください。とても集中しているときは周囲のことなど意識には入らないのです。呼びかけに応えなくても大きな声を出して怒らないで下さい。集中している人を妨げないで下さい。シリコンバレーなどではゾーン(ZONE)に入って仕事をすることが多いと聞いていますが、日本でゾーン(ZONE)の意識に入って仕事をするのはまだまだ危険であるように思います。
■道徳的生活が瞑想の基礎
心を穏やかにすることが瞑想の基礎です。そのためには道徳的生活を送る必要があります。道徳的生活を送れば悩みも減り、雑念も減ってきます。
■瞑想に「努力」は本来必要ではありません
心が穏やかになれば雑念も減り、そうなれば瞑想も「自動的」に起こります。よく、「瞑想とは自動的に起こるものであって、瞑想をするわけではない」という説明がされることがありますが、これは文字通りそのままの意味です。雑念が減った状態で座って目を瞑れば自動的に瞑想状態に導かれてゆき、「安らぎ」を感じることができます。それは文字通り自動的に起こるのであり、瞑想しようとすると激しい雑念に邪魔されて苦しいのであればまだ初級の段階と言えます。ヨガ的には、雑念が多い時に瞑想に引き戻す作業は「プラティヤハーラ」です。それは悪いことではなく、瞑想に向けた準備段階の1つです。プラティヤハーラとは、感覚器官(五感:視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚)を外から内へと引っ込めて、外の雑念や感覚から切り離すことを意味します。雑念が出てきて心が外へ外へと向いてしまうのを内へと引き戻すのがプラティヤハーラです。プラティヤハーラの段階では瞑想は「自動的」には起こりませんが、それはそれで誰もが通る段階ですので通り抜ける必要があります。成長の一つの段階です。プラティヤハーラで感覚が内へと向かうと、次は集中(ヨガで言うダーラナ)ができるようになり、集中(ダーラナ)ができるようになると、次第に瞑想が自動的にできるようになってゆきます。これは1回の瞑想で状態が遷移するものというよりは、瞑想を続けてゆくうちに状態が少しずつ変わってゆく、という種類のものです。慣れないうちはプラティヤハーラまで到達し、やがてはプラティヤハーラとダーラナの2つが連続してすぐに起こるようになります。そしてやがては、プラティヤハーラと集中(ダーラナ)と瞑想(ディヤーナ)の3つが続けて起こるようになります。上達した後は、これら3つのものは連続してほぼ同時に起こりますが、最初のうちはプラティヤハーラだけをして感覚器官(五感:視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚)を内へ内へと向けることにだけ集中します。そして瞑想を続けるうちに、やがては瞑想が自動的に起こるようになります。
■特別な体験を求めない
瞑想に特殊な体験を期待する人がいますが、ほとんどの場合、特別な体験は起こらないか、あるいは、夢見と同じように想像している場合が多いです。ヨガ的には、基本は「たとえ本当の神秘体験をしたとしてもそれが悟りでないのならば重要ではない」と説きます。実際には神秘体験の中のいくつかは成長の「しるし」として認められるものもあるのですが、それは経験豊富なグル(教師)にしか見抜けないものですし、それを体験したからと言ってすぐにどうこうなるものでもありません。実際の成長には長い年月がかかるものなので、すぐに何かを体験できると期待しないのが基本です。特別な体験はエゴを拡大することもありますから、それはそれで危険です。瞑想においては、体験を求めずに心の平安・平和を求めるのが基本です。
■食べ物
刺激のある食べ物は瞑想の妨げになると言われています。食べ物は絶対的なルールではありませんが、体の快・不快によって瞑想のやりやすさは変わりますので健康的な食べ物を取るのが基本です。古典的にはベジタリアン食が良いとされています。
■禅定とサマーディ(三昧)、そしてゾーン(ZONE)
広義においては基本的に同一とみなして良いですが、厳密には、第一禅定はサマーディ(三昧)ではなく第二禅定以降(第4禅定まで)がサマーディ(三昧)です。マインドフルネスでゾーン(ZONE)に入ったというのは第一禅定の状態を指しますので、厳密にはサマーディ(三昧)ではありません。上で、ゾーン(ZONE)がサマーディ(三昧)の初歩の段階、と書いたのはこのことです。(参考文献:悟りの階梯(藤本 晃 著) 、瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著) )
- 第一禅定=マインドフルネスで言う「ゾーン(ZONE)」=広義の(いわゆる)サマーディ(三昧)
- 第二〜四禅定=狭義のサマーディ(三昧)
禅定とか言うと難しく感じられますが、まず最初の目標はいわゆる「無」になって雑念を消し去るところです。瞑想を始めたばかりの頃は雑念がとめどなく現れてきて瞑想どころではありませんが、上に記載したように無私の奉仕(カルマヨガ)やヨガのアーサナ(体操)などをするにつれて雑念が減ってゆきます。その段階での目的地は、まず「無」を体験することです。心の動きを止めて、雑念がない状態を体験することです。雑念がない状態では「くつろぐ」ことが出来ます。その「無」の状態から抜け出ると再度雑念が湧き出てくるでしょうからその「無」は絶対的な悟りというわけではなく、一時的な「くつろぎ」ではあるのですが、今までずっと雑念が湧き出てきてずっと頭を働かせることで疲れ果てている頭にとっては、その一時的な休息であってもとても助けになることでしょう。まずは、その「無」の状態を目指します。雑念が強い場合は「無」を体験するのは偶発的な運に任せるしかありませんが、雑念がある程度減ってくれば、雑念が弱まった状態で「えいっ」と心を一点に集中(サマタ瞑想)することで「無」の状態に入れるようになります。ここまで来れば、瞑想がとても楽しくなる筈です。そのくらいになれば、睡眠の質も変わってきます。良い睡眠が取れるようになり、以前より短い時間で疲れが取れて回復するようになります。気持ちが晴れやかになり、表情も変わってきます。
私の場合、いわゆる「無」を経験した約1週間後からナーダ音(別記事参照)が聞こえるようになりました。
■マインドフルネスの「ゾーン(ZONE)」(第一禅定)のためにも集中が必要
いわゆる「無」の場合は集中して雑念を消し去りますが、ビジネス向けのマインドフルネスにおけるゾーン(ZONE)の場合は課題に対して集中をし、課題と一体になります。集中するという手法は似ているのですがその使い方が若干違います。ゾーン(ZONE)の場合は無ではなく、課題の中に入り込みます。その際、絶対的な至福が感じられます。仕事に集中して楽しくなり、更には成果も上がるということでシリコンバレーなどではマインドフルネスおよびゾーン(ZONE)がもてはやされているようです。
■いわゆる「無」とゾーン(ZONE)の違い
仕事の効率アップが目的であれば瞑想で対象へ集中して用いてゾーン(ZONE)状態を作りますが、リラックスあるいは悟りが目的であれば瞑想で「無」状態を作ります。
ゾーン(ZONE)は雑念がある程度残っていても仕事の内容に熟練すれば割と簡単に入ることが出来ますが、「無」の状態に入るためにはある程度まで雑念を減らす必要がある、という違いがあります。というのも、ゾーン(ZONE)であれば対象がありますので心(マインド)をその対象に向け続ける集中力がある程度あればゾーン(ZONE)状態を保つことが出来ますが、「無」の場合は雑念を「押しのけて」(という表現が適切かどうかは微妙なところですが)「ぐいっ」と意識を押し込めて「無」の状態を作るのである程度雑念が減らないと難しいからです。
とは言いましても、ゾーン(ZONE)状態だけでも対象と一体となっている間はとてつもない至福状態になりますので、それはそれで気力的には充実したものになります。ゾーン(ZONE)による至福と「無」によるリラックスはかなり違うものではあるにせよ、瞑想の「集中」テクニックとしては割と似ています。雑念の度合いによって出来る出来ないの違いがあるくらいです。
■「無」とは心のコントロール
「無」というと何もかも無くなってしまうかのような印象を受けるかもしれませんが、そういうことではありません。「無」を経験するとは、心をコントロールして一時的に「無」の状態にする、ということです。心のコントロールを解けば「無」の状態は解除され、再度、心(マインド)が働き始めます。雑念が次々に出てくる無秩序の状態では「無」は偶発的にしか起こりませんが、心がコントロールされている状態になれば意識的に心を停止させて「無」の状態を作り出せるようになります。
「無」それ自体が通過点ではありますが、ヨーガでは「無の状態にずっと逃げ込んでいてはいけない」とも言います。一時的な「無」を経験できるほどの心のコントロール力をつけるのは雑念を減らすためにも必要ですが、「無」とは心の停止状態ですので、ずっと心を停止させてしまうのはヨーガの目的ではない、と古来から伝えられているようです。「無」は通過点として最初の目標ではありますが、最終目的地ではないということです。心が疲れた時に一時的に「無」になって休息するのは問題ありません。
西洋の心理学や哲学の一部では「心こそが自分自身」である、と説きますが、ヨーガでは「心(マインド)は自分自身ではなく、魂(ヨーガで言うアートマン)こそが自分自身であり、心は魂(アートマン)の道具である」、と説きます。瞑想は後者の見解に根ざしています。魂が心を制御して一時的に静止状態にするということは、魂(アートマン)が心(マインド)を制御できるようになる、ということです。
■「無」とは、何かをイメージすることではない
上記のように、心の動きを静止させるのが「無」ですので、「無」と言う何かをイメージするわけではありません。「ギュッ」と心の動きを抑えて静止させるだけですので、何かをイメージしているとしたらそれは「無」ではありません。
■「無」の次は「意識を拡大」する
「無」で意識をギュッと自分の中心に押し留めることができるようになると、意識が拡大してきます。周囲がキラキラ輝くものとして見えるようになり、ありふれた風景すらも美しい風景に変わってゆきます。匂いなども敏感になり、タバコの煙が耐えられなくなる一方で、草花の香りや雰囲気に敏感になります。他人や周囲のもの、草花なども含めて、全てが自分自身「かもしれない」という感覚が芽生え始めます。このくらいになると、他人を傷つけることはできなくなります。他人を傷つけると自分のハートが瞬間的に傷つくので、他人を傷つけることが不可能になります。食べるものに対しても敏感になり、次第にベジタリアン食に変わってゆきます(日本ではなかなか難しいでしょうが)。
■「意識の拡大」とは、何かをイメージすることではない
「無」の場合と同様に、意識の拡大とは実際に意識が広がることですので、「広がった何か」をイメージするとか、「無限性をイメージ」することではありません。
■「意識の拡大」とは、心が広がることではない
「心(マインド)」の基本的な属性は「集中」です。心は何かに集中(散漫な時もありますが)あるいは「無」になるのかのどちらかです。「心が広がる」とか「心が拡大」するわけではありません。心は制限されており、心が何かを認識するためには集中のポイントが必要になります。一方、「意識の拡大」とは、「心の奥底にある、魂とでも言うべき意識がその認識範囲を広げる」と言う種類のものです。ただ、人によっては両方を心と呼んでいたりするのでコンテキストが混乱していることもあります。ここでは心と魂(意識)を分けています。
雑念が多かったり「無」を未体験の状態ですと意識の範囲が狭い範囲に限られていますが、「無」を経験して雑念が減ってくると、その奥にある「魂」の意識が表に出てきます。その結果、意識が拡大するのです。瞑想が深まって、静けさがどんどん深まるにつれ、魂による意識の認識範囲が広がって行きます。人によって視野だったり聴覚だったり触覚だったりします。通常の五感を超えたところで意識が働くようになります。
意識が拡大して敏感になると、この世は生きにくいと感じられることが多くなるかもしれません。例えば仕事であればゾーン(ZONE)に理解のある職場で働くと言うのも選択肢の1つかもしれません。ゾーン(ZONE)くらいまでであれば日常生活を送ることも割と普通にできますし仕事の集中力や判断力も高まって良いことづくめですが、ある程度以上を目指そうとするとやはり、ヨガであればアシュラム(道場)のようなところで静かに過ごす方が安全だと思います。と言うのも、このように意識が拡大してしまうと不必要に他者の感覚を敏感に受け取ってしまうようになりますので、日常生活で度々困難が生じることがあるからです。時には情緒不安定な時期もあり得ますので、理解のあるグル(師匠)の元で困難な時期を過ごした方が良いことも多いです。
■いわゆる「無」と禅定およびゾーン(ZONE)の関係
「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著) 」によると、第二禅定で思考が止まって「楽」の状態になります。ですから、「無」とは第二禅定のことだと推定できます。第一禅定では思考がありますのでマインドフルネスのいわゆるゾーン(ZONE)で仕事をすることができますが、「無」である第二禅定では思考が止まってしまいますので仕事はできません。とは言いましても、第二禅定にまで達したのであれば普段の雑念も相当減っていますから、ゾーン(ZONE)に入らずとも通常の状態で普通に仕事が集中できて判断力も高まっている筈です。その場合、必要があればゾーン(ZONE)に入ることもできますが、第二禅定に達する前であれば通常状態とゾーン(ZONE)の状態の差がとても大きかったのに対し、第二禅定に達した後は通常状態とゾーン(ZONE)の差がとても小さくなっていますので、通常状態で普通に仕事をすれば十分かもしれません。
同書によると、第一禅定では「心が喜びに満ち、思考が残っている状態」、第二禅定は上の通り、第三禅定では「喜びが消えて楽だけが残る、たいへん高度な安らぎ」、第四禅定は「楽の波も止める。苦も喜も楽もない、統一した状態:捨(しゃ)」(と言う安らぎ)とのことです。
- 第一禅定=マインドフルネスで言う「ゾーン(ZONE)」=広義の(いわゆる)サマーディ(三昧)=心が集中し、心が喜びに満ち、思考が残っている状態。
- 第二禅定=いわゆる「無」=狭義のサマーディ(三昧)=思考が止まり、心が喜びに満ち、思考が止まり、「楽」になる。
- 第三禅定=狭義のサマーディ(三昧)=喜びが消えて楽だけが残る、たいへん高度な安らぎ。
- 第四禅定=狭義のサマーディ(三昧)=楽の波も止める。苦も喜も楽もない、統一した状態:捨(しゃ)。対象のある禅定の中では最高のもの。
この関係は時々混乱して表現されます。なんとなくそれっぽく聞こえて語呂合わせは良いのですが、例えば「無こそが全体」とか「無こそが無限」と言う表現は一見すると聞こえは良いのですが意味を考えると混乱します。これは、次のように考えると分かりやすいです。「無」とは認識に限界のある「心」に関するものであり、心が止まるといわゆる「無」になると言うのは上に書いた通りです。一方、「全体」と言うのは心のことではなく、魂の意識が感じられる範囲ですから、それは全体でもあり、無限でもあります。最初の言葉を言い直すと「心が静止すれば(意識が)無を感じ、心が静止して心が無になれば魂の意識が全体や無限を感じる」とでも言えば良いでしょうか。ただしこれは、コンテキストによって「無」が何を意味するかによって意味合いが変わってきますので注意が必要です。念のため記載しておきますと、今回のこの記事では「無」は心に属するお話として記載していますから、この記事のコンテキストにおいては「無こそは全体」にはなりませんし、「無こそが無限」にはなりません。
(追記) 後日、「悟りの階梯(藤本 晃 著)」の記述をたまたま発見したのですが悟りを得た「阿羅漢」であれば心を一時的にではなく心を滅することができ、それを「滅尽定(めつじんじょう)」と言うそうです。もしかしたら「無こそが全体」あるいは「無こそが無限」と言う表現はこの滅尽定のことを意味しているのかもしれません。であればこの文面のまま正しいのかもしれません。ただ、私は滅尽定の体験はしておりませんので明確ではありません。この記事では滅尽定ではなく前記の意味の第二禅定でいわゆる「無」を表現しております。
■いわゆる「光」とは
「悟りの階梯(藤本 晃 著)」によると、第二禅定以降が「光」の世界と称されています。これは原始仏教で言う「光」ですが、面白いことに、近代のスピリチュアルでも人の魂の本質は「光」であると主張しています。興味深いところに共通点があるようです。私自身の経験においても、第二禅定のいわゆる「無」を経験して以降に光といいますか熱と言いますか愛と言いますか、言葉ではいかようにも言いあらわせるのですが、それを「光」と言うのであればそうかもしれない、と言う感覚を伴っていますので、第二禅定のいわゆる「無」を経験した以降が「光」の世界だと言うのは納得がいきます。同書によれば、第二禅定の中でも3段階(少光天、無量光天、発光天)に分かれて、光が少ない方から多い方に3分割されているようです。第三禅定ではより高い光の世界の分類(浄光)になっています。禅定が進めば光が増える、と言うことのようで、理にかなっています。
■悟りではない
悟りの階梯(藤本 晃 著) や瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)によると、テーラワーダ仏教的には第四禅定が悟りではないようです。内容的にも納得できます。ただし、禅定はそれ自体でとてつもない平穏な状態ですので、悟りではないにせよとても寛いでいる状態なのは確かです。どうすれば悟れるのか? と言う点には流派によって主張が異なります。同書のテーラワーダ仏教的にはヴィパッサナー瞑想によって悟ります。一方、ヨーガは流派にもよりますがニルビカルパ・サマーディで真我(アートマン)と一体化することでこの世の幻想(マーヤー)を打ち砕いて悟ることができる、と言う流派もあります(「あるヨギの自叙伝」より)。一方で、ヴェーダンタを勉強している人は知識によって悟る、と主張します。
ただ、悟るとか言うお話はとても高い目標ですので、瞑想をする目的としてはとりあえず置いておいて良いと思います。ひとまずは雑念を減らして、禅定で幸福感を味わい、運よく悟りに近づければラッキー、くらいに思っていた方が良いような気がいたします。
■ゾーン(ZONE)に入るだけだと、ゾーン(ZONE)から抜けると苦しい
仕事で集中すれば、時にゾーン(ZONE)に入ることができます。やがて熟達すれば任意にゾーン(ZONE)に入ることができるようになりますが、それだけだとゾーン(ZONE)から出て通常の状態に戻ると苦しいのです。もともと苦しい状態だったのが、ゾーン(ZONE)に入ることで一時的な喜びを味わうことができたわけです。その喜びは一時的なものですから、ゾーン(ZONE)から出ると苦しさが戻ってきます。
マインドフルネス瞑想でゾーン(ZONE)に入ることが目的の方はこのジレンマに遭遇します。ゾーン(ZONE)に入れば仕事も集中できて捗りますし判断力も高まるのですが、通常状態とのギャップに苦しむわけです。これは、実のところ何年もずっとゾーン(ZONE)に入り続けていれば次第に解消してきます。ただし、上に書いたようにゾーン(ZONE)の禁戒である「集中を妨げられないこと。精神にダメージを負わないこと」が大前提です。ゾーン(ZONE)とは第一禅定ですから、それに熟達すれば次第に精神が浄化されて第二禅定へと進んでゆきます。第一禅定のゾーン(ZONE)では通常状態に戻った時に苦しいですが、次第にそのギャップが小さくなってゆきます。上にも書きましたように、次第にゾーン(ZONE)の彷彿感や喜びそれ自体は減ってゆきますが、正常なことです。やがて、その落ち着いた状態が日常生活にも広がってゆきます。一時的な彷彿感・喜びから、生活全体に常にある喜びへと変わってゆきます。
■瞑想すればするほど、他人を傷つけることができなくなってゆく
きちんと瞑想できているか、と言う見分け方です。瞑想が進んだ筈で自分ではそう思っているのに変わらず他人を傷つけても平気であれば自分の瞑想の仕方や瞑想の進み具合を見直す必要があります。
■瞑想すればするほど、自分自身の言葉遣いに気をつけるようになる
これも同様です。例えば、他人を「怒鳴る」ことができなくなります。瞑想していたりスピリチュアルを謳っていても他人に怒鳴ることができるのであればそれはスピリチュアル初心者です。これは、「激しい言葉を使わないようにしましょう」などと言う標語ではなく、実際にハートが荒々しい言葉を発するのを拒否すると言う実質的な状態であり、ちょっとでも激しい言葉を使おうと心が意図するだけでハートが痛み出して、ハートが言葉を発するのを拒否して荒々しい言葉を発するのをやめてしまう、と言う種類のものです。怒りも同様で、そもそも怒り自体が減っていますのでそうそう怒ることはなくなってはいるのですが、それでも怒りの感情がちょっとでも出ると自分自身のハートが痛むのですぐに怒るのを辞めてしまいます。
■不徳の人に会ったら無関心になりましょう
上記のようなハートがすぐに反応する状態になると、自分ではそう思っていなくても、ずる賢い人から見たら「カモ」扱いされるようになりますので注意が必要です。人付き合いには気をつけて、ずる賢い人の近くに近づかないようにしましょう。マインドフルネス瞑想でマインドコントロールの危険性が叫ばれていますが、職場の一部でマインドフルネスを取り入れると精神性の高い人が増えますから、瞑想しない人は勘違いをするかもしれません。瞑想を取り入れた職場では一方的な搾取にならないように監督することが大事になります。
これで思い出されるのは仏教やヨーガ・スートラにも書かれている四無量心(慈悲喜捨)の「捨」お話です。ヨーガ・スートラ 1-33に基づくと、これは以下のようなことです。(「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」より)
・幸福な人に会ったら友愛の心を持つ(慈)
・不幸な人に会ったら哀れみの心を持つ(悲)
・徳の高い人に会ったら歓喜する(喜)
・不徳の人に会ったら無関心になりましょう(捨) ← これ
この4つ目がこの場合、重要になります。瞑想が深まるにつれ、不徳な人と対峙することが文字通り不可能になります。喧嘩などできなくなります。荒々しい言葉で対処ができなくなります。であれば、無関心になりましょう。
過渡期においては自分がこのように成長しても相手はしばらく昔の行動を続けることがありますが、過渡期を過ぎれば周囲から不徳な人は次第に消えてゆきます。カルマの歯車はすぐには不徳な人を周囲から消し去りはしませんが、時間が経つにつれて不徳な人との繋がりは消えてゆきます。それは職場の部署異動かもしれませんし転職かもしれません。どちらにせよ、瞑想が深まるにつれて周囲の環境も変わってゆきます。
これは「搾取を許して良い」と言うことではありません。人間の自由意志は最高に尊重されるべきことでありますから、自由意志を奪うような搾取は許されません。しかし、搾取を許すと言う自由意志もありますから搾取を許している人が多いのも事実です。瞑想するにつれて現実の理解も深まりますから、気付いていなくて搾取されているような関係もどんどんと解消されてゆきます。
ある程度の境地に達すれば、完全に自分の自由意志を発揮することができるようになります。「するように言われたから」ではなく「自分がしたいからこれをする」と言うようになります。エゴが欲望や論理でそう言うこともありますが、これはエゴよりももっと深いレベルの魂の意識でそのように認識できるようになると言うレベルです。このレベルになれば、かつて強制や操作・共依存などによって結びついていた周囲の人は急速に貴方から離れてゆきます。と言うのも、周囲の人は貴方ともはや昔のレベルで貴方と結びつくことができなくなるからです。貴方は魂(アートマン、スピリット)と繋がり、魂に従って動くようになります。そのレベルに達するまでは不徳な人と会っても完全に無関心でいることは難しいですが、それでも、無関心でいる努力が必要です。
■過去のストレスの解放
瞑想の初期は、色々な体験をするでしょう。上にも書きましたが、何かが見えたり何かが聞こえたりするかもしれませんが、基本的にはそれらは全て重要ではありませんので無視をするのが古典的ヨーガの解釈です。と言うのも、瞑想するとまずストレスが解放されますのでトラウマや疲れがどっと出てきます。それは強烈な体験を伴うことがあります。カルマの解放です。瞑想と言うとそのような強烈な体験をイメージされる方もいらっしゃいますが、それは特に最初の過渡期に起こり得るものであり、瞑想の一部です。
通常の生活においては、生活を送るために過去のトラウマやストレスは抑圧されています。その抑圧は悪いものではなく、ある程度の抑圧は日常生活を送る上で必要なものです。瞑想においてはそのトラウマやストレスを徐々に解放して解消してゆくことができます。ですから、一部の瞑想は、通常抑圧されているものを一気に解放するために強烈な動きを伴ったり、体を自由に動かしたりします。これは人によって合う合わないがありますので、座る瞑想が好みの方もいれば、動く瞑想を好む方もいるでしょう。
どちらにせよ、ある程度の解放が済めば、最終的には”何も起こらない”瞑想になってゆきます。瞑想の本質は刺激的な体験や変容意識にあるのではなく、魂を浄化することにあります。
■瞑想をする様々な目的
瞑想と一言で言っても、人によってその目的は様々です。
・神を求める。浄化
・ゾーン(ZONE)によるビジネス上の効率アップおよび判断力アップ
・意思の強化、メンタルの強化
目的によって瞑想のテクニックも多少異なってきますし、結果も異なってきます。古典的な瞑想は神を求めて精神を浄化するためのものでしたが、近年はマインドフルネス瞑想でビジネス向けのゾーン(ZONE)を使うことで効率と判断力アップを目的に瞑想する人も増えています。一方で、メンタルが弱いために自己の意思の強化のために瞑想をする人もいます。
■意思の強化、メンタルの強化
この目的で瞑想をする場合、もしかしたらその目的は「エゴの強化」であるかもしれませんが、瞑想をすることで得られるのは実はエゴの強化ではなく、「エゴなど実はなかった」という「楽」な心境です。それはいわば「エゴなんて何もないのだから、負けることはない。負けることがないのだから自然で振る舞えばよい。芯がないようでいて実は強い」という種類のものです。ですから、メンタルを強化してエゴを強くしようとして瞑想をするのは、真理には叶ってはいるものの、実のところその目的であるエゴの強化は達成できませんので、瞑想という手段に頼るべきではないかもしれません。ヨガ的にはエゴなど存在しない幻想ですのでその幻想をありのままに体験してしまいますので、目的は達成できないかもしれませんが、心境的には楽になると思います。それでも良いのであれば瞑想すれば良いと思いますが、エゴの強化という目的は達成できません。
ただし、間違って瞑想を行うと、その副作用としてエゴが拡大することはあります。副作用を利用してエゴを強化するのは黒魔術に属する手法ですのでお勧めしません。目的が浄化であれば、気付かないうちにエゴが拡大しないように気をつけます。
瞑想をして何かを求めているうちは、求めると言う行為には「私」が必要ですからいつまで経っても目的地にたどり着くことはないでしょう(例外として神や真理は求めても良いですが)。他人からの批判や非難があっても、「私」がいないのですから何も傷つかない心境になることで、それはいわばメンタルが「強い」と言えなくもない状態にはなりますが、一般でイメージされるような意思の強さ・メンタルの強さとは若干趣が違う強さが瞑想で得られます。
■何を求めるのか? 目的が重要
神を求めて瞑想をするのであれば、雑念を振り払う瞑想であっても時間はかかりますが浄化されてゆきます。その際、上に書きましたように、雑念に圧倒されないように気をつけて瞑想を行うのは大前提になります。しかし、目的が浄化ではなく何らかのエゴの強化であるとすると神に到達することはありません。快楽が貴方の心の大半を占めている時、瞑想をして集中をするとその快楽が強化されることがあります。あるいは、雑念が多い状態で瞑想をして集中をするとその雑念に関するエゴが強化されることがあります。「人は求めれば与えられる」と聖書にあるように、まさに、浄化が目的で神を求めて瞑想をするのであれば浄化が与えられ、一方で、快楽やエゴの強化を目的として瞑想をするのならばその通りの不幸な結果が与えられます。それは良い悪いと言うよりは、人には自由意志があるのだから求めれば求めたものが与えられる、と言う単純な真理。瞑想とはテクニックであり、いかようにも用いられます。仕事のためのゾーン(ZONE)が目的なのか、あるいは、神と浄化が目的なのか、あるいは、エゴの強化で勝負に勝つ(?)ことが目的なのか。それによって目的地は異なってきます。最終的な山の頂上の目的地は変わらないにせよ、とりあえずの目的地と言いますか中継地点が変わってくるということです。
■浄化の印
瞑想を神を求める目的で行ってゆくと、次第に浄化されてゆきます。奉仕(カルマヨガ)やヨガのアサナ(体操)をすることでも同様です。すると、以下の浄化の印が次第に現れてきます。(一部は「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー(Swami Vishnu-Devananda著)」によります)
・平和な心になる。
・穏やかな顔になる。顔が輝く。顔色が冴える。
・体が柔らかくなる。体が痩せる。
・曇りのない綺麗な目になる。
・体が丈夫になる。
・元気になるので、睡眠時間が短くなる。
・自然な(努力のいらない)禁欲の達成。性欲に悩まされることが激減する。
・食欲が旺盛になる。
・瞑想中にナーダ音という特殊な音が聞こえるようになる。(聞こえない人もいます)
・浄化がかなり進むとクンダリーニ経験をする(グルの指導なしにはお勧めしませんが不意に経験する人もいます)
■瞑想の熟達者が必ずしも人格者ではない
原始仏教のアビダンマ講義「悟りの階梯(藤本 晃 著)」によると、禅定の熟達で一時的に悟りの状態になることができる凡夫と、本物の解脱をした人格者を分けています。「一時的な悟り」では高度な禅定に熟達して一時的に心が平安(捨)の状態になるものの禅定を抜けると元どおりの雑念および煩悩状態に戻ってしまいます。この場合、いくら禅定に熟達してもまだ凡夫のままです。一方、本当の悟りがある人は常に心が平安(捨)であり、人格者です。同書によると、大抵の場合は禅定に熟達してから悟るが、禅定に熟達しなくても悟ることができる、と書かれてあります。よって、「悟った人のほとんどは禅定に熟達しているが、必ずしも禅定に熟達しているわけではない。一方、禅定に熟達しているからと言って悟っているとは限らない。」ということがわかります。
■禅定に熟達すればサイキックな能力(千里眼など)が得られる
原始仏教に基づくと、第四禅定にまで熟達すればサイキックな能力(千里眼など)が得られるとあります。実際のところは私は体験しておりませんので何とも言い難いですが、スピリチュアル業界でサイキック能力を持つ人には大勢会ったことがありますのでサイキック能力自体は実在するのは確かだと思っております。
■サイキック能力があるからと言って人格者とは限らない
上に記載した通りサイキック能力は第四禅定で得られますが、禅定に熟練したからと言って悟っているとは限りません。実は私が長らく疑問に思っていたことがありました。スピリチュアル業界でサイキック能力を持ったり知識が沢山あったり透視能力が多少はある人が、必ずしも人格者というわけでもなく怒りの沸点が低かったり精神的に情緒不安定である人を度々見てきたのですが、何故だろうと思っていたのです。サイキックなスピリチュアル業界でよく言われていることですが、「サイキックの能力と霊的成長の度合いは関係がない」というお話です。これが長らく疑問だったのですが、今回の理屈で説明がつきます。
サイキック能力を得るためには第四禅定があれば十分だとすれば、悟りではなく禅定のみを熱心に訓練すれば能力が得られます。巷でスピリチュアルなスクールやサークルがありますが、方向性として、悟りではなく能力を目的として第四禅定を目的としているのであれば、その基本的な方向性は「集中」による禅定の強化です。であれば、第四禅定で一時的な平安(捨)を得ている間はいいのですが禅定から抜ければ凡夫になるので、サイキックの能力と霊的成長の度合いは関係ない、というのも容易に理解できます。
中にはサイキック能力を目的に瞑想をする人もいらっしゃいますが、サイキック能力だけを目的にすると凡夫の苦しみから抜けることはないと思います。ヨーガの経典であるヨーガ・スートラでも言われています。能力に魅力を感じて能力を得てしまうと解脱まで行かずに寄り道してしまうので、更に人生の苦しみを味わうことになる。能力が得られそうであってもその魅力に取り憑かれてはならない、と。伝統的なヨーガでは、サイキックな能力は霊的な成長の妨げとして考えられています。一方で、同じ伝統的なヨーガでは、悟りさえすればサイキックな能力は自動的に向こうからやってくる、とも言われています。このあたり、原始仏教における悟った後の話とリンクして同じような事を述べていて興味深いです。
「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 著)」には次のように書かれています。「オカルト・パワーというものを持つと、世間が強烈になり、ついには苦痛が強烈になるだけである。力を得ても解脱は得られない。それは快楽をもとめる世俗的な欲求であって、快楽の探求は全て無駄である。それは、人が容易には理解することのできない、古い古い教訓である。それを理解したら、彼は宇宙を脱出して自由になるのだ。」
悟る場合の多くは禅定にも熟達していることが多いものの禅定は必須ではありませんので、第四禅定で得られるサイキック能力を持たずに悟る人もいらっしゃるようです。ですから、サイキックな能力がないからと言って霊的成長の上下を図ることもできません。結局、基本的なところである「心が平安かどうか」で人を見るのが間違いが少ないと言えます。
このように、能力を目的に第一禅定から第四禅定まで「集中力」を強化して頑張るのは心の平安が伴わない場合がありますのでお勧めしません。一方、それぞれの禅定の状態を一つづつ体験して、心の平安を目的に禅定を深める方がよほどやりやすいです。それぞれの段階の基本的要素は上に記載した通りですが、まずは第一禅定は何かに集中し第二禅定では心の動きを止めて楽になり、第三禅定では喜びが消えて楽だけが残り、第四禅定で楽も消えて平安(捨)になる、というステップを踏みます。このステップを踏まずに第四禅定相当のサイキック能力を求めるというのは、いわばそれは裏技であって、たとえ能力を得ても悟りには遠いというのが古典が述べているところです。昨今はスピリチュアルが楽しいものとして言われておりますが、実際に踏み入れると怖いこともありますので、このあたりは覚悟も必要です。基本的にはグル(師匠)がいないと踏み入れるべきではないとは思いますが、能力を求めずにある程度の禅定をするくらいであればさほど危険はないと思います。
■仕事や奉仕(カルマヨガ)と禅定
仕事において対象と一体になりゾーン(ZONE)に入ること、あるいは、奉仕(カルマヨガ)で奉仕の対象と一体になること、その意義は第一禅定の達成にあります。奉仕をすることでエゴをなくしてゆき、やがては対象物と一体になり愛を感じるようになります。最初は第一禅定ですから愛というよりは愛着のようなものではありますが、やがては第一禅定から第二禅定に移ることで純粋なものになってゆきます。
■禅定を繰り返すだけでも浄化される
一部の瞑想指導者は「禅定をするだけでは悟れない」と言い、禅定よりも違ったもの、例えばヴィパッサナー瞑想だとかジャーナ(ギャーナ、知識)だとかベーダンタだとかを論じますが、禅定はそれ自体で浄化の作用がありますので、決して無駄ではありません。
確かに、段階を追うにつれて禅定だけでは先に進めない段階というのはありますが、それはずっと先のお話ですので、ほとんどの人は禅定(多くは第一禅定)をして浄化するのが良いと思います。たとえ仕事目的のゾーン(ZONE)で第一禅定だけだったとしても浄化の作用はあります。最初は仕事目的の筈だったのにいつの間にかその先の境地に導かれていた、などはよくある話ですので、あまり禅定を悪者扱いしなくても良いとは思います。
昨今は、例えばヴィパッサナー瞑想の論者がブッダの悟りの過程を持ち出して集中瞑想(サマタ瞑想)では悟れないとか言いますが、それはとてつもない高いレベルの話であって、我々多くの一般人にはほとんど関係のない話だと思います。一方で、ヴェーダンタでは知識のみが重要視されていて禅定のサマーディでは悟れないから知識こそが悟りへと導くとかいうお話がされていますが、それは禅定などをして極限にまで浄化された人がその先に行くためにどうすれば良いのかというお話をしているのであって、我々ほとんどの人にとってはあまり関係がなく、浄化をするために禅定をするのがほとんどの場合は適切なやり方であると思います。
ヴィパッサナー瞑想とかベーダンタの理論は確かに高い境地を説明してはいますが、基礎はやっぱり禅定ですので、「禅定しても仕方がない」とか言ってヴィパッサナー瞑想とかベーダンタとかの良さを主張する人は本当に高い境地に達しているのか甚だ疑問です。
■ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)とサマタ瞑想(集中瞑想、ヨガの基本の瞑想)
観察瞑想も集中瞑想も、初心者にとっては実はほとんど同じです。どちらもある程度の観察とある程度の集中を必要とします。ですから、初心者がヴィパッサナー瞑想をしているつもりで例えば息を観察しているとして、一方で、初心者がサマタ瞑想をしているつもりで眉間を集中しているとして、その両者の初心者がやっていることは実は大差ありません。やがては差が出てきますが、それはちょっと先のお話ですので、最初はあまり違いを気にしなくて良いと思います。
ビジネス向けのマインドフルネス瞑想にしてもヴィパッサナー瞑想に基づく息の観察と思いきやゾーン(ZONE)に入るということであればそれは禅定のサマタ瞑想とも言えるやり方を取り入れていますので、そのくらいであればサマタ瞑想もヴィパッサナー瞑想も大差ありません。禅定においては集中しているから動けないと思われている方も多いようですが、そんなことありませんしね。明確に区別するならサマタ系の禅定とヴィパッサナー系の禅定とを分けるべきなのかもしれませんけど、そこまで大差があるようには思えません。分類するならゾーン(ZONE)をヴィパッサナー系(観察系)の禅定としても良いのかもしれませんが、そこまで差があるものでしょうかね。第一禅定であれば心が静止していませんので心は動いていて、それでも禅定ですから一応はサマタ系の禅定であっても集中の(広義の)サマーディと呼ばれますけど、第一禅定では心が動いていますから人によってはそれはヴィパッサナー瞑想だと思われるかもしれませんけど、ヴィパッサナー瞑想というのは心ではなく魂の意識で観察することなので、心が動いているかどうかは本質的ではなくて、第一から第四禅定全てでヴィパッサナー瞑想は可能ですから、第二禅定以降であればヴィパッサナー瞑想の違いが出てきますが、第一禅定であるゾーン(ZONE)までであれば明確な区別はあまり意味がないように思います。
ヴィパッサナー瞑想かサマタ瞑想かの違いとしては「流派の違い」であって、特に初心者にとっては実質的にあまり差がないと思われるのが良いと思います。
■グル(師匠)の必要性
ヨーガでは古典的にグル(師匠)の必要性を解きます。しかし、現代はそのグル(師匠)のスタイルよりも先生としての付き合いが多いような気が致します。実際のところ私は今のところ私のグル(師匠)を見つけることができていませんし、今後もそこまで期待はしておりません。「先生」であれば数多くの先生がいらっしゃいましたが、全てを委ねて良いと思ったグル(師匠)はいませんでした。昨今ですとオウムのようなこともありましたし、グル(師匠)は必須ではないのかも・・・ とも思っております。ニセ覚者とも遭遇したことがありますし、判断力がきちんとつくまではグル(師匠)を選ぶのは危険性も大きいのではないかと思っております。選ぶのであれば伝統的なところが危険性は少ないような気も致します。仏教で修行された方を師匠に選ぶというのは無難かとも思います。ヨーガであれば伝統的なスワミですね。伝統的にはグル(師匠)は一度決めたら一生その人のみ、というのが筋ですが、実際のところ、伝記を読むと複数人のグルに教えを受けている方も多々いらっしゃいますので、そこまで気にすることはないのかもしれません。個人的にはグル(師匠)は今のところ不要で、先生さえいれば良いかな・・・ と思っております。いきなりグルに会うかもしれませんが、その時はその時です。
昨今では瞑想のスクールも多々ありますがその多くはグル(師匠)ではなく単なる先生ですし、現代のスタイルとしてはそれが標準だと思います。
■違和感を大切に
長い間スピリチュアルと関わり続け、時には細々と時には多少密接に接した者としましては、自分の身を守る唯一のセンサーは「違和感」です。何かちょっとでも違和感を感じたら様子を見ましょう。文字通り「ちょっとでも」違和感があるのであれば、そこには何かがあるのです。親切そうに見えて共依存や強制・操作によって結びつこうとしているエセ・スピリチュアルな人は大勢いますから、いくら注意してもしすぎることはありません。
■強力な力に魅了されて自己の自由意志を手放さないように
スピリチュアルなサイキックな力を持つ人と出会う時、まるでその人が神の生まれ変わりであるかのように思うことがあるかもしれません。それは上で書いたような「力」だけを得て悟りを得ていない人かもしれません。グル(師匠)との関係の基本は、グルの指導に何であれ従うということです。そのグルは、真っ当で正統派のグルであれば個人の自由意志を潰すようなことは決してしません。しかし、この世にはグルという名を使って強制や操作・依存などで繋がってパワーを得ようとしている人が大勢いるのです。
人は生まれながらに、内なる神と波長を合わせるという権利を持っていますが、偽グルを崇拝すると内なる神と波長を合わせることを忘れてしまうかもしれません。同様に、人は誰しもが生まれながらに持っている権利である、威圧的な力に対して個人的な力を自主的に用いて対抗したり無視したりできるという権利を捨ててしまうかもしれません。パワーに魅了されて、自分自身のこれらの基本的な権利を手放した代償は高くつくことでしょう。グルは相当の精神性を持っているべきであり、他人の権利を奪うことができる立場であっても奪わないだけの自制力を持った人格者でなければなりませんが、今の時代にそんな人はそうそういません。判断力がないうちは、凄いグルだと思っても実際はそうでないこともあります。そんな時は、やはり、小さな違和感を感じるかどうか、というところに頼るしかありません。
瞑想の世界はマインドに強く影響しますので、このあたりをいくら注意しても注意しすぎることはありません。私も何度か偽グルに騙されて操作されそうになったことがあります。今まで平気でも、将来的に操作や強制されないとも限りません。明日は我が身かもしれません。この種のものは、海外旅行で被害に会うのと同様で、狙われたらかなりの確率でやられます。いくら気をつけていても、やられる時はやられます。まるで株式投資で初心者がいきなりラスボスにやられるようなこともあります。そのくらい敵は強力で、マインドのコントロールやスピリチュアルに熟練した人は山ほどいて、上には上がいます。ここまで来ると、もはや自分では守ることができない領域も存在しますが、なるべく自分で気をつけるのが基本で、あとは守護霊に守ってもらうしかないです。この世界は、意外と怖い面も多くあります。海外旅行と同じで、かなりの人は大丈夫ですが運が悪いとやられます。
少し驚かせてしまったかもしれませんが、普通に瞑想して雑念を減らして平和な心を求める分には危険はないので大丈夫です。悪いことを考える人は雑念の多い人やパワーを求めるエゴが大きい人を狙って迷わせてきますから、パワーを求めずにだんだんと雑念が減って平和な心になればなるほど危険は減ってゆきます。
■初心者は、不活性な状態(ヨガで言うタマス)に入り込まないように
心の動きを鈍くして不活性な状態(タマス)に入り込むのは、瞑想でよくある間違いです。心の周囲に雲のようなモヤモヤを集めて包みこめば心は不活性になり、あたかもそれで雑念が減ったかのような錯覚を覚えるかもしれませんが、それは本来の瞑想でやりたいことの逆をしています。瞑想では心の曇りを取りたいのであって心の曇りを増やしたいのではありません。
このように、心を不活性にして心の動きを鈍くすることが「無」ではありません。「無」とはある程度の心の浄化ができた状態で心の動きを「ギュッ」と意識して止めてしまうことです。心がそれほど純化されていなくても強烈な意思の力で心の動きを止めることが出来る方もいらっしゃるようですが、普通はある程度の純化をしないとそれはなかなか難しいと思います。
上に記載したように、ある程度の純化をしないと瞑想で混乱しやすいので、無理に瞑想するとこのように不活性な状態(タマス)に入り込む危険性があります。最初は瞑想を長くはせず、ヨガの体操(アサナ)や奉仕(カルマヨガ)をすると良いと思います。
瞑想を長くやっていらっしゃる方でも、時々この罠にはまっているように見受けられる方もいらっしゃいます。特に、上に書いたように「怒りの沸点が低い」方にその傾向が見られます。普段そうして心を不活性な状態(タマス)に包んでしまっているので、いざ自分の心が表に出たらそれに耐えきれなくてすぐに怒りの沸点に達してしまうのでしょう。あまりいないのですが、同様に瞑想で激動(ヨガでいうラジャス)に包むことで心を包んでしまっている方もいらっしゃいます。これも同じく「怒りの沸点が低い」傾向があります。実のところヨガでいう3つのグナのうち2つがここに出てきましたが、残る1つの純粋性(ヨガでいうサットヴァ)がとりあえずの目的地にはなるのですが、実はそれすらも最終的な悟りの道には乗り越えないといけないのですが、その話は別項にて。
■もしかしたら初心者にはヴィパッサナー瞑想が向いている?
私はそうはしなかったのですが、もしかしたら一番最初はヴィパッサナー瞑想のやり方の方が初心者には向いているのかもしれません。観察だけして集中はせず、雑念が出てきてもそれを受け入れるというヴィパッサナー瞑想のやり方は初心者と上級者に向いているのかもしれません。そうなると、「初心者向けの最初は集中瞑想(サマタ瞑想)を短くするかヨガの体操(アサナ)をするか奉仕(カルマヨガ)をするか」という選択肢に加えて「ヴィパッサナー瞑想をする」、という選択肢もあるかもしれません。そうして、ある程度の浄化ができてきたら集中瞑想(サマタ瞑想)に入って禅定を見極め、その後の段階で再度ヴィパッサナー瞑想をする、というのがいいのかもしれません。初期の段階では集中瞑想(サマタ瞑想)もヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)もさほど差がありませんので、これはこれでありなのかもしれないです。
思えば、私の場合は20年ほど前に今ほど洗練されていない原始的なヴィパッサナー瞑想(単なる想念の観察をする瞑想)を教わってからその後は仕事で日々何度もゾーン(ZONE)に入って作業をすることである程度の浄化を済ませ、2年半ほど前からヨガを始めてアサナ(体操)で更なる浄化をし、次にヨガのサマタ瞑想(集中瞑想)に入って行きましたので、もしかしたら最初はヴィパッサナー瞑想がいいのかもしれません。
■ヴィパッサナー瞑想と禅定
「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によると、第一禅定から第三禅定には欠点があると言います。第一禅定の欠点は「検討作用と識別作用」です。実際のところゾーン(ZONE)においてはこの検討作用と識別作用が残っているからこそ仕事の効率がアップするのでありますが、悟りの観点からすればそれは一時的な過渡期の状態です。次の第二禅定の欠点は「5つの感覚の基体から生まれる幸福感」です。第三禅定の欠点は「心の快楽と苦痛」です。第四禅定ではこれらの欠点が解消されて清らかな状態になります。
ヴィパッサナー瞑想の基礎は「感覚」を使って悟ることにありますが、それはこの第二禅定の欠点の5つの感覚器官を超えるところにあります。その場合でも、第一禅定を飛び越していきなり第二禅定にはなりませんから、必ず、ある程度(と言っても相当の)精神集中を伴った第一禅定を経験してから第二禅定へと入るわけです。そこに達するまでは、「感覚」を観察したところで結局は第一禅定を目指して集中力を高めているに過ぎません。上にも書きましたが、基礎としては集中瞑想(サマタ瞑想)も観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)も大差ないのです。第一禅定(いわゆるゾーンZONE)まではどちらも大差ないと言えます。ただし、上に書きましたように、ヴィパッサナー瞑想の方が危険性は少ないとは言える気がします。集中瞑想(サマタ瞑想)で雑念に圧倒されて混乱してしまうよりはヴィパッサナー瞑想で始めた方がいいのかもしれません。グルがいる場合は別だと思いますが。
一部のヴィパッサナー瞑想の流派では浄化をせずにいきなり基礎のサマタ瞑想(例えばアーナパーナ瞑想)をして集中力を高めてからヴィパッサナー瞑想に入ろうとします。それは順序としては一見正しいのですが、サマタ瞑想(集中瞑想)には上に書いたように雑念に圧倒されて混乱してしまうリスクがありますので、最初はサマタ瞑想(集中瞑想)を長くやるべきではないのですが、一部の流派はスケジュール重視でサマタ瞑想を強制しますので、とても危険なこともあるかと思います。このあたり、やはり瞑想はグルあるいは教師がきちんと生徒の状態を見てあげないと特に初心者は危ないと思います。初心者に瞑想(特に集中瞑想・サマタ瞑想)を長くさせるべきではない、というのは昔から伝わる教訓のようです。初心者が無理やり長い瞑想をした結果、瞑想の目的であるエゴの浄化ではなく「俺はやったぞ。俺は凄い瞑想をしたんだ」というようなエゴを拡大させる逆の結果に至ることもあります。それは悲しいですし周囲も迷惑ですよね。一見するときちんと瞑想をしているようなところであっても実態は変なこともありますので、精神世界の業界は特に注意深くあらねばなりません。基本的には、自分自身の直感と「違和感」を大切にします。直感と違和感の両方があったら違和感を優先させるくらいで良いと思います。安全第一です。
■ヨーガ・スートラと禅定
ヨーガ・スートラは八支則(はっしそく、アシュタンガヨーガ=流派ではなく8つの段階のこと)に基づいており、最後がサマディですのでそれは禅定・三昧になります。ヨーガ・スートラの全体像は1章の2番と3番に集約されています。この訳は微妙ですのでいくつかの書物から引用します。
योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः॥२॥
Yogaścittavṛttinirodhaḥ||2||
तदा द्रष्टुः स्वरूपेऽवस्थानम्॥३॥
Tadā draṣṭuḥ svarūpe'vasthānam||3||
(2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。
(3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。
「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より
(2) ヨガとは心の活動を抑えることです。
(3) その時(思考波が静止している時)、知覚者は自分自身の真の状態に留まります。
「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」より翻訳
(2) ヨーガは、心(チッタ: Chitta)がさまざまの形(ヴィリッティ(ス): vrittis)をとるのを抑制することである。
(3) そのとき(集中したとき)、見る者(プルシャ)は、彼自身の(変られていない)状態におちついている。
「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」より。
補足: プルシャはサーンキヤ派の言い方で、厳密には違うのですがとりあえず魂だと思っておけば良いと思います。サーンキヤ派は二元論でプルシャ(純粋観察者:精神)とプラクリティ(物質)とに分ける流派です。その後のシャンカラチャリアがヴェーダンタ学派で不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)を作りましたので、ヨーガスートラのベースになっているサーンキヤ学派の二元論とヴェーダ的な世界観は異なるので注意が必要です。ただし、普通に読むにはそこまで厳密にならなくても、そのあたりをひとまとめにして「魂」あるいは「真我(アートマン)」だと思っておけば良いと思います。厳密に考える人にはツッコミ入れられる解釈ですけど、ほとんどの人はそんなところまで考えなくても良いと思います。
さて、本題に戻りますが、ヨーガ・スートラの目的地はこの1章2番と3番で述べられているように心の作用を止滅と言いますか停止させることです。止滅というと心がなくなってしまうかのように誤解する方もいらっしゃいますが、心を無くして植物人間になれと言っているわけではありません。実際、心を無くしてしまうのは悟りを得た人にも無理と言いますか、心は無くならないものです。言葉の語弊と言いますか、修行の過渡期と言いますか、心が自由気ままに動いているものを一旦止めましょう、と言っているに過ぎません。心をコントロールできるようになりましょう、と言っているだけに過ぎません。これで、ヨーガスートラの目的地が心の作用の停止であることがわかりました。そして、ヨーガスートラでは8段階にそのステップを作っていて、最後はサマーディ(禅定・三昧)であり、サマーディ(禅定・三昧)に至れば心の作用は停止する、ということです。そして、心の作用が静止した時にどうなるのかは3番に「見るもの」がそれ本来の状態に留まる、と書いてありますけど、この「本来の状態に留まる」というのは分かりにくい表現ですが、この本意は、「観察者が表に出てくる」ということです。今まで心が動き過ぎていて心が自分自身だと思っていたが、その裏には観察者がいることに気付く、というのがヨーガ・スートラの最終目的地です。
さて、これを上に記載した第一禅定〜第二禅定に当てはめてみましょう。心の作用の静止とは、上で書いたいわゆる「無」の第二禅定の段階のことです。ですから、ヨーガ・スートラの最終地点は第二禅定であり、第二禅定でいわゆる「無」を経験すれば、心の裏に隠されていた「純粋観察者」「精神」「意識」とか言われるもの(表現だけの違いですが)が表に現れてきます。第二禅定に達するまでは心しか見えなかったのが、第二禅定でようやくその心が静かになってその裏のものが見えるようになると言いますか表に現れてくるのですね。
昔ながらのたとえ話で湖と波紋のお話があります。心を湖に例えると心がざわついているというのは湖が常に波打っていることであり、サマーディ(禅定・三昧)で湖の波を沈めるとその奥にあるものが見えてくる、というお話です。あるいは湖に映る自分自身が見えてくる、という表現もあります。どちらにせよ、サマーディ(禅定・三昧)で心を鎮めるのがひとまずの目的地になります。ただし、サマーディ(禅定・三昧)というのは一時的に心を静止させることですのでサマーディ(禅定・三昧)を抜けると心がまた動き出します。ですから、常時穏やかな心を保つためには何度も何どもサマーディ(禅定・三昧)をして心を鎮める必要があります。これは、ヨーガ・スートラ1.4で述べられていることです。
1.2 [ヨーガの定義] ヨーガとは心の作用を止滅することである。
1.3 [真我] 心の作用が止滅されてしまった時は、純粋観察者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。
1.4 その他の場合にあっては、真我は、心のいろいろな作用に同化した形をとっている。
ヨーガ根本教典(佐保田 鶴治 著)より
人によっては、「サマーディ(禅定・三昧)は一時的な心の静止だからその方法では悟れない」とか言う人もいますけど、私はそうは思いません。一度のサマーディ(禅定・三昧)で少し浄化され、次のサマーディ(禅定・三昧)でもう少し浄化され、確実に進んでいます。方法の問題というよりも回数および雑念の蓄積の量の問題だと思います。人によっては「サマーディ(禅定・三昧)をしても無駄」とか言い切る人もいますけど、そんなことはありません。サマーディ(禅定・三昧)を何度も体験して、第一禅定ではまだ心が動いているが何度も禅定を体験するにつれて心も静止する第二禅定に移行し、やがては深い安らぎに包まれていって第三禅定・第四禅定に入るのであって、そんなに急ぐものでもありません。一時的な心の静止というのは確かにそうですが、現実世界に戻った時にその安らぎは多少ながらに残っています。次の瞑想後にはまたその安らぎはもう少しだけ深まります。そうして成長してゆくものだと思います。
少し補足しておきますと、サーンキヤ派は二元論を元にしているのでプルシャ(純粋観察者)とプラクリティ(物質原理)が基本にあって、観察をするのはプルシャですが、一方でその後に成立したシャンカラチャリアのヴェーダンタでは不二一元論ですので個人のいわゆる魂というか意識はアートマン(真我)と言い、一方で、いわゆる宇宙の意識はブラフマン。ですので、第二禅定で観察するのはサーンキヤ派に基づけばプルシャですがヴェーダンタに基づけばアートマンになります。世間ではサーンキヤ派(ヨガ・スートラ派)とヴェーダンタ派(不二一元論)とでどちらが正しいのか論争になることもあるみたいですが、我々凡夫(苦笑)にとってはそんなハイレベルなことを意識しても仕方がありません。まずは第二禅定に達してからそれからどちらが正しいのか自分で確かめれば良いだけの話です。そこまではヨーガ・スートラのやり方の方が詳しいでしょうし、その先はヨーガ・スートラの範疇を超えてきますのでその時は別のやり方を探せば良いと思いますが、とりあえずの目標は第二禅定(サマーディ・三昧)だと思います。きっと、シャンカラチャリアのようなレベルになれば第二禅定を超えていますので不二一元論になるような気もしますが、そのレベルに達するまではあまり関係ないような気もします。例えば、ヨーガの大家でインドのリシケシにあるヨガニケタンを作ったスワミ・ヨーゲンヴァラナンダはその著書「魂の科学」にて、どちらが本当に正しいのかを自身の感覚で考察しています。その中で、「両者の論を元に実際のところを観察してみたが、どうもこの部分に関してはサーンキヤ学派の方が正しいような気がします」と書いてあったりします。私のレベルではその正しさを理解できませんが、少なくともこのヨーガの大家は聖典に書いてあることを鵜呑みにするのではなくて一つづつ確かめながら自分の知識にしているようです。このように、他者から言われたから信じるのではなくて自分自身で確かめてゆくのがスピリチュアルの正しい姿であり、本来のヨーガ的な生き方であって、いわゆる宗教のように「そのように教えられているのでそれを信じます」というのは本来のスピリチュアルではありませんし本来の宗教でもないですし、最近の間違った宗教が盲目的にさせているだけだと思います。意外とスピリチュアルと科学とは分析と観察・考察という点で似ていると思います。というわけで、第二禅定を達成してその先に進むまではどちらの論が正しいのかなんてわからないのですから、「そうかもしれないが、まだわからない」とだけ思って判断を保留して、とりあえず第二禅定に向かって瞑想を続けるのが良いのだと思っています。私がこういうことを言うと、たまに「そんなことありません。ヴェーダンタはサマーディなしで知識のみで悟ることができます。」と言う人がいますけど、私の内なるガイドが教えてくれたところによるとヴェーダンタで言う「知識」とは「光」のことであって、上に記載したように第二禅定以降の世界は「光の世界」と言われますが、その世界では知識がひとりでにやってくると言うか意識するだけで知識が与えられる、意識するだけで知識がやってくるので、その状態においては確かに知識のみで悟ることができますが、それはサマーディの世界のお話であって、どこぞの誰かが勝手に解釈して「サマーディなしで」と言う間違った解釈を付け加えたのであって、本来は「知識のみ」と言うのはサマーディの光の世界の知識のことを意味しているのだ、と教えられました。私はこうして内なるガイドから聞いて「なるほどなあ」と納得はするのですが、基本は上のように「そうかもしれないけれども、信じることなく、後で確かめる」と言う立場を取って、これは知識としては記憶しておきますが確定はせずに保留しておくのが私のやり方です。まあ、感覚的にもこれが正しい気がしていますけど。少しずつ確信を増やしてゆくのが私のやり方です。
■瞑想とカルマ、そして過去生
瞑想によってカルマが解消されます。スピリチュアルの言い方で言うと「癒される」とでも言うのでしょうが、瞑想をするにつれて奥深くに眠っていたヨガでいうところのサムスカーラという「印象」が表に出てきます。表に出た後、それを理解することで「印象」は解消され、すなわちそれはカルマの解消になってカルマは消え去ります。その「印象」は、過去の記憶やトラウマ・怒り・喜びなどと結びついていますが、今生だけでなく過去生の記憶だったりします。実は、過去生の記憶というのは基本的に、解消されていなカルマと結びついています。過去生を思い出すというのは、その本質は、そこにカルマがあるということです。カルマがあるということは、成長のためにはそのカルマを解消する必要があります。瞑想で過去生の記憶を見た場合、そこには何がしかの課題が眠っています。 ただし、サマーディを体得してヨーガでのいわゆるシッディで見る場合はもちろんこれに当てはまりません。シッディで見る場合はそのようなレベルを超越しているからです。
■私の簡単な瞑想プロフィール
ヨガ歴2年半。浄化の印であるナーダ音が聞こえるようになる。(詳しくは別記事参照)
精神世界歴は30年以上ですが、就職後は現世利益と精神世界を行ったり来たりして最近はヨガ中心の生活を送っています。
ヨガを教えてはいませんが一応 全米ヨガアライアンスの先生のライセンス(RYT 200)は持っています。