カジューシャスの火とクンダリーニ

2019-07-01
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 と 「仙道におけるクンダリーニ、性的欲求の克服(馬陰蔵相)」 と 「ナーダ音が聞こえるのは右か左か、それとも両方か?」 の続きです。

■カジューシャスの火
「クンダリニ― ある奥義体験(G.S.アランデール 著) 」には、クンダリーニと非常に似通った「カジューシャス」について記載されています。これはギリシア神話で「ケーリュケイオン」とか「カドゥケウス」とか言われている羽のついた蛇の絡まっている杖の姿で象徴されますが、同書によると、どちらも「火」と「活力」という点においては共通で、カジューシャスは単独で目覚めうるそうです。両者は混同しやすく、同じものと受け取りがちとのことです。この内容に基づけば、私が経験したのはクンダリーニではなくカジューシャスだった、という仮説が成り立ちます。

同書では比喩として、カジューシャスの火は「解放の道」をもたらし、クンダリニの火は「成就の道」をもたらす、という違いがあるとも述べられており、カジューシャスはその杖のシンボルに象徴されるように中央の「スシュムナ」と左右の「イダとピンガラ」のセットのことであり、同書によるとカジューシャスは低次処体内への拘束から解放する通路である一方、クンダリニの本質はより大きい意識と1つになるための案内役である、と記載されています。カジューシャスが低次の欲求や混乱から解放するものである一方で、クンダリーニはより高い次元へと導くのでしょう。

ということであれば、前記事で記載したような私の体験は、どちらかというと低次の欲求の解消の面が大きかったと思いますので、実際はクンダリーニではなくカジューシャスの体験だった、とすれば納得がいきます。とは言いましても、このように分けているのは神智学の一部の書物だけで、それも、同じ神智学でも「神智学大要」などにはこの記述はなくて「クンダリニ― ある奥義体験(G.S.アランデール 著) 」くらいにしか出てきませんので、多くの場合はクンダリーニとして一纏めにされているのが現状のような気がいたします。ヨーガ系でもこれら2つは分けられていませんし、これはトリビアとして心の端に留めておくくらいがいいのかもしれません。

それにしても、クンダリーニの経験は「ヨーガ行者には解脱を、愚者には束縛を与える。」と言いますし、一人でのクンダリーニ経験は危険ですから、私の経験がクンダリーニではなくカジューシャスだったということは、グルがいない私としてはこれで良かったのかもしれません。まあ、実は似たり寄ったりかもしれませんが。

■クンダリーニを2回に分ける
瞑想中に得たインスピレーションによると、私の場合にはクンダリーニ経験を2回に分けるというテクニックが使われているようです。それは私の守護霊の1人がヨガ系のガタイの良い修行僧みたいな人(霊)で、恐らくはシバ派あるいはどこかの流派のやり方のようなのですが、他の多くの流派では一回でクンダリーニを上げるので準備が整っていない人はクンダリーニ症候群になっておかしくなることが多々あるようですが、それを避けるために、私の守護霊の流派では伝統的に2回に分けてクンダリーニの上昇が行われるようです。その期間は数ヶ月開ける事もあればもっと長い事もあるようですが、最初は緩くクンダリーニを上げるようです。具体的には、1回目は左右1本づつ合計2本クンダリーニを緩く上げて、その後、時間をかけて体をクンダリーニに順応させます。まだ完全に準備が整っていなくても、1回目のクンダリーニでおかしくなることはほとんどないようです。このあたり、どのような感じだったかは 前の記事に書きました。(ちょっと紛らわしいですが、前の記事に書いた2回目がここで言う1回目で、ここで言う2回目は私は未体験です。)そして、体の準備が整ってから2回目の本番でクンダリーニ本体を上昇させるとのことですが、私の場合は2回目はまだです。2回目はやり直しがきかない一発勝負で、それが失敗したらかなり悲惨なことになるし、失敗すれば今生での霊的成長がかなり滞ってしまう、あるいは、完全に無理になる事もあるようなので2回目をいつ行うのかは守護霊が慎重に見極めているとのことです。私も、2回目をいつ行ってくれるのかは教えられていません。それはずっと後かもしれませんし、2回目は無理と判断されるかもしれないです。私の意志よりも守護霊の判断が重要のようです。瞑想の中での話なので本当かどうかはわかりませんけど、私はこれを「仮説」として理解しています。

これはある流派の秘儀であり、一般的には公開されていなくて、同様の情報を見つけるのは困難なようです。多くの流派は1回のクンダリーニで上げようとするようですから。私の場合は人間のグルはいなくて守護霊がかなり上級のヨガ行者のようなので割と見極めてもらっていると思っています。そこに確証はないですけど、たぶんそうだとなんとなく思っています。基本的にはグルがいないとこの種のことは危険かなとは思います。私の場合、クンダリーニの上昇は守護霊およびハイヤーセルフの意思がなければおそらく起こらなかったと思います。私はハタヨガなどの秘儀は書物は一応ハタヨガプラピディカとか読みましたが実践という意味ではそんなに通じていませんし、私が自己流でハタヨガを修行してクンダリーニを意思の力で上昇させるのが危険なのは明らかですから、私の場合、安全にクンダリーニ経験するには「あちら側」にいる霊やハイヤーセルフの意思に委ねるのが安全だったといいますか、そもそも私の意思なんて無関係で「あちら側」にいる霊やハイヤーセルフが全部お見通しで筋書き立てて経験させたのだろうと思っています。だからおかしくならなかったのかなと。そんな安全な筈のやり方であっても時々バランスを崩した事もあるので、2回に分けるやり方でなかったらどうなっていたのだろうかとも思いますが。補足しますと、「あちら側」にいる守護霊やハイヤーセルフに委ねたのは確かですけど、この世界は自由意志が尊重される世界ですので自分の意思とは無関係に勝手にクンダリーニ経験を与えることは許されておりません。その筈です。瞑想中に何度か守護霊やハイヤーセルフにコンタクトを取って、計画と言いますか、お願いおよび許可を出して、それを元に色々としてもらった、という感じだと理解しています。ですから、たまに聞く「瞑想していたら(運よく? 事故で?)クンダリーニが上がってしまった」とかいう状況とは私の場合はかなり違うのかな、と。

私が瞑想中に得たインスピレーションでそう思っているだけですので他の人はクンダリーニ修行など好きなようにしても良いと思いますが、私はこんな感じで理解しました。

この2回に分けることは広義においては文字通りクンダリーニを2回に分けることだと思いますが、神智学の「クンダリニ― ある奥義体験(G.S.アランデール 著) 」に記載されているように「カジューシャスの火」と「クンダリーニの火」に分けて考えると随分としっくりきます。これは言い方の違いだけで、おそらく同じことを意味しているのかなと思います。