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禅の十牛図「身心脱落」からヨーガスートラとウパニシャッドへ

2019-07-23
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

■禅の十牛図「身心脱落」(しんじんだつらく)
「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」には以下のようにあります。

最初の心の脱落は、肉体が周囲の空間に溶け込んだ時に起こる。感覚を受け止めるフィールドは残っているが、独特の調和が保たれることで、ほとんど雑念が湧いてこない。あたかも静かな泉の水面(みなも)を淡々と眺めているだけのような感覚だ。心中、嵐もなく波紋も起こらない。意識は判然としていて心の平静を自覚している。

これは先日書いた内容ととても似ています。どうやら私はこの段階にいるようです。第三図の「見牛」に相当します。同書は次のように続きます。

だが、本当の意味での心の脱落とは、一定の調和によって雑念などを起こらなくさせることではなく、ヨーガスートラ第1章にあるように心の作用そのものを止滅させることなのだ。(中略)これは「騎牛帰家」から「忘牛存人」に至るプロセスに他ならないのである。

この最終的な状態は私にはまだよくわかりません。と言いますか、てっきり前者のお話がヨーガスートラの「心の作用の止滅」かと思っておりましたので、今の私の状態はまだ半分なのだとこの本で気付かされました。

■禅の十牛図とヨーガスートラ・ウパニシャッドの比較
同書ではこれらの比較も行なっています。

  1. (十牛図)心身脱落 = (ヨーガスートラ)心の作用の止滅 = (初期仏教)止
  2. (十牛図)見性 = (ヨーガスートラ)純粋観察者の出現(真我を見る) = (初期仏教)観
  3. (十牛図)得牛〜放牛 = (ヨーガスートラ)真我独存 = (初期仏教)還
  4. (十牛図)騎牛帰家 = (ウパニシャッド)真我の離脱 = (初期仏教)還
  5. (十牛図)忘牛存人 = (ウパニシャッド)宇宙の最高原理との合一 = (初期仏教)還
  6. (十牛図)忘牛存人 = (ウパニシャッド)穢れを離れる = (初期仏教)浄
  7. (十牛図)人牛倶忘 = (ウパニシャッド)死を超越する = (初期仏教)浄
これを見ると、ヨーガスートラの位置付けがはっきりします。一般に思われているヨーガスートラの最終地点である「心の作用の止滅」は解脱の最終地点ではないわけですね。ヴェーダンタはウパニシャッドを扱いますのでヴェーダンタの位置付けも分かります。ただ、ほとんどの人にとってはヨーガスートラが合っているのではないでしょうか。なかなかヨーガスートラの次の段階には達しないような気が致します。

ヨーガスートラで言うところの「心の作用の止滅」が半分ではあるものの体感できるようになってきて、「次はどうすれば良いのだろう?」と思っておりましたので、道筋が見えてきました。

■主観と客観、意と識の分離、客体と自体
「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」では、先日書いた「心で観察するか、意識で観察するか」に関して次のように説明しています。

ヨーガで止滅させる対象は”意”であって”識”ではない。なぜなら”識”は、意の働くフィールドであって、ヨーガの技術によっても止滅させることはできないからだ。つまり、識なくして個の存在もない。またこの識は、個を超えて全体とも繋がっている。だからこそそこに全体との合一と融合つまりウパニシャッドへの道が開かれるわけだ。ヨーガは意と”個の段階の識”を対象とし、ウパニシャッドは”個”を超えたより深く広い領域を対象としている。

これまた興味深い記述です。この”意”と”識”という表現はこの著者の編み出した言い方のようです。上の段階と合わせるとよく理解できます。同書では、同じ”意”と”識”について別の観点からも紹介しています。

ヨーガスートラには「(中略)客体ばかりになり、自体をなくしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である」とある。佐保田博士は「心理学的に言えば、主観の状態が忘れ去られて、客体だけが意識の野を占領する状態」と説明されている。

上記の原文を探しましたところ、「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」のヨーガ・スートラ 3-3 に記載がありました。三昧の説明としてこれが記載されていますが、それがこの”意”と”識”と結びつくのは私にとってはちょっと意外でした。と言いますのも、三昧の定義は「主体と客体が同一になる(二元性がない)」ことだと思っていたからです。であれば私は既に三昧(の一種)に既に到達していることになりますけど、あまりピンときません。三昧は種類が沢山あって、どれがどうなのか文章だけではイマイチわかり辛いのも難点です。手元の書物を改めて確認してみましたところ、どうやら最初の三昧(サマーディ)は主体と客体の二元性がまだ残っており、次第に二元性のない三昧(サマーディ)に移ってゆくとのことです。サマーディはあまりにも高い目標とばかり思っていましたのでサマーディのことはノーマークでしたが、基本的なサマーティの要素はいつの間にか達成していたようです。

私は”心”と”意識”という言葉で表現しましたが、こうして見ると色々と表現方法があるものです。

人はよく客観視という言葉を気軽に使いますけど、ヨーガ的というか心理学的な狭義の「客観」がこの種の状態を意味するのであれば狭義の客観ができている人はかなり絞られると思います。広義の客観が技術的・論理的なものであるとしたらここで言う狭義の客観はまるで別物ですね。興味深いです。まあ、この辺りを突っ込みだしたら色々とあるでしょうし定義によっても異論も色々あるでしょうからこのくらいにしておきます。客体とか主体とか客観とか主観という言葉の定義を色々調べ出したら、上の引用文も論理的にどうなのでしょう? という気もしてきましたので。自分の瞑想で「答え」を知っているので「ああ、あのことを言いたいのかな」と類推できますけど、そうでなければこれはなかなか理解し辛い表現だと思います。

■息の「観察」の変化
先日書いた「息の観察」について補足します。かなり以前は瞑想で「息を観察」する場合に「心」で「吸っています」「吐いています」あるいは擬音で「スー」「ハー」と「心の声」を出すようにしておりましたが、それは「観察」とは言わないような気が最近はしています。昔はこの辺りの表現がごちゃ混ぜだったかもしれませんので、昔の記事を読むと混乱があるかもしれません。かなり以前は心による現象の追っかけ動作も「観察している(筈)」と思っていましたが、いつ頃からか、息の「観察」と言うと「意識で」観察することだと今は思っています。よって、上に書いた「心を動かさずに息などを観察していると〜」と言うのは心で息の動きを言語化することではなくて、「意識」で(心はほとんど動かさずに)息を観察することを意味します。この違いは大きいです。この「意識」の動作は「感じること」と言い換えても良いです。

■ヨーガスートラにおけるサマーディ
幾つかの書物を探ってみます。

  • ヨーガスートラ 3章1~3) 「集中(ダーラナ)とは、心を1つの場所、対象、あるいは観念に縛りつけておくことである。瞑想(ディアーナ)とは、そうした対象への認識作用の絶え間ない流れである。三昧(サマーディ)とは、この瞑想(ディアーナ)そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。瞑想には、3つの要素がある。つまり、瞑想者と瞑想と瞑想される対象である。しかしサマーディには、対象か瞑想者かの、どちらかしかない。そこには、「私はこれこれのものに瞑想している」という感じがない。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」
  • ヨーガスートラ 3章1~3) 「ダーラナー(集中)とは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の普段の流れが、ディヤーナ(瞑想)である。それが全ての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。それは、瞑想中に形、すなわち外側の部分がすてられたときにやってくる。かりに私がある書物を瞑想していたとする。そして徐々に心をそれに集中し、内面の感覚、すなわち形ではまったく表現されていない意味だけを知覚することに成功した時、ディヤーナのその状態が、サマーディとよばれるのである。「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 著)」
  • ヨーガスートラ 3章1~3) 「凝念(ぎょうねん)とは、心を特定の場所に縛りつけておくことである。静慮(じょうりょ)とは、同一の場所を対象とする想念がひとすじに伸びていくことである。その静慮が、外見上、その思念する客体ばかりになり、自体を無くしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である。心理学的にいえば、主観の存在が忘れられて、客体だけが意識の野を占領する状態である。「ヨーガ根本教典(佐保田 鶴治 著)」
  • ヨーガスートラ 3章1~3) 「心(マインド)と物体との間の途切れない認識の流れがディヤーナ(瞑想)です。瞑想では、心(マインド)は気を散らすことなく、着実に集中の対象を掴んでいます。 他の考えは心(マインド)に入りません。主体と対象の意識が消えて意味だけが残るとき、サマーディと呼ばれます。サマーディは、瞑想の対象の本質に心(マインド)を結びつけるものです。その純粋な意識以外には何も存在しません。「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)から翻訳」
気になる箇所をピックアップしてみます。

  • 「対象か瞑想者かの、どちらかしかない」ということは「瞑想」が抜け落ちるので、瞑想という「動作」が抜け落ちて「主体がなくなる」「心の動きがなくなる」と解釈できます。この種の3つのお話はヨーガでは時々あって、見る者/見られる者(物)/見ること(動作)という3つのセットなのでそのうち1つが抜け落ちると解釈できます。
  • 「私はこれこれのものに瞑想している、という感じがない」というのは、心の停止・雑念の停止を意味すると解釈。
  • 「意味だけを知覚」とは 「意識」で「感じること」と同等と解釈。
  • 「客体ばかりになる」というのは「意識で感じる」ことであり、「自体を無くしてしまったかのように」とは、「心がなくなる(停止した)」状態、と解釈。
  • 「主観の存在が忘れられて」とは、主観となる「心」の動きが停止することだと解釈。「客体だけが意識の野を占領する状態」とは、「意識」で「感じる」状態だと解釈。
  • 「主体と対象の意識が消えて意味だけが残る」とは、原文の「意識」という言葉が混乱しますが、本来の意味を考えればこれは「心の動きが止まり、意識で意味を感じる」と解釈。同様に「瞑想の対象の本質に心(マインド)を結びつけるものです。その純粋な意識以外には何も存在しません。」も混乱しますが、「瞑想の対象の本質に意識を結びつけるもの。その純粋な意識以外には何も存在しません。心は停止しています。」と解釈できます。
こう見ますと、本来の状態や意味を知っていないとなかなか解釈が難しいことがありますね。



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