神に許しを請う祈りとは?

2019-07-25 記載
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

■「私」という感覚の希薄化に伴う「神に対する祈り」への変化
先日 許す瞑想 について書きましたが、その時の主体は「私」で、私が許します、という瞑想でした。ですが、私という感覚の希薄化に伴って、(私が)「許します」という瞑想 から(神よ)「許してください」という瞑想に自然に変化してきました。

竜巻の経験の前は自分という感覚(自我)がまだそれなりにあったので「私が」許します、という瞑想だったのです。今は、「私」という自我の感覚が薄まったので「私が」許すというのは違和感があるので「神よ、許してください」というのがしっくりきます。論理的に考えてそうなったというよりは、どちらが「しっくり来るか」というお話です。しっくりくる言葉が自然に湧き上がってきます。これは他人(あるいは人格神)に依存するということではなくて、自我がなくなった時の許しはこうするしかない、という感覚です。自我がある時はおそらくは「私が許します」で問題ないのかなと思います。

キリスト教の許しを請う祈りはこのレベルなのかもしれないです。自我が薄まるまではその許しと祈りの本質は理解できないのかもしれません。神様に祈って許しを請うのは、過去のカルマを解消するにはそれ以外に方法がないからです。神様以外に、一体誰に許しをもらえるというのでしょう? 特定の神様のイメージはありません。他に表現することができないのでとりあえず神様と言っているだけで、ブラフマンとか大自然とか宇宙とか言ってもいいかもしれませんけど、私にとっては普通に神様というのがしっくりとくるというだけのことです。些細なことであっても、今までしてきたことに対して、それの許しがもらえるとしたら神様以外に思い浮かびません。まあ、人によっては「守護霊様」とか「大心霊様」とか「天照大御神様」とか「キリスト様」とか「アッラー」とか、なんでもきっと同じなのだと思います。

自我がまだある状態で無理やり許しの瞑想を誰かにさせられたらキリスト教の悪い習慣のように神様に対して恐怖を感じてしまうのかもしれませんが、本来の意味は自我がなくなった状態でのこの種の許しを自発的にすることだとすればそこに強制はなくて恐怖もなくて、ただただ安らぎ(と言う言葉すら違和感がある平穏さ)だけがあるのでしょう。言葉にすればそれは何か違う感じになってしまいますが、神様に委ねるしかない、という気持ちです。繰り返しますけど、神様への依存ではないです。自我がなくなった時の祈りを表現するとしたら神様への祈りとしか言いようがない、という、表現だけの問題です。

過去を振り返りますと、過去の大きなトラウマに関しては「自分」に対して許す瞑想でかなり解消してきていました。それをベースにして、まだ残っているとても小さな小さな出来事に対しても完全に浄化するには、これはもう神様に祈るしかないな、という感覚です。最初から自我が少ない人であれば最初から神様に祈ればいいのかもしれませんが。

ここでは「神」という言葉はブラフマン的な意味で言っており、大自然や宇宙とも言える大きな存在ですので人格神ではありませんが、神様が「人」だと頑なに思っている人、あるいは、神様がなにがしかの「自分以外の意志や存在」、あるいは、絶対的な人格神だと頑なに思っている人は、これは逆じゃないかと思うかもしれません。その種の人々は、「大きな罪は神様に助けてもらって小さな罪は自分でなんとかする」、いうように逆に考えるかもしれません。ですが、ここで言っている神は人格神ではありませんので、ここで言っているのはそういうことではなくて、自我が強いか弱まっているかという観点で瞑想というか祈りのやり方を変えているだけです。祈りも瞑想も本質は同じです。この祈りの本質は「許し」で、本質的には自分も他人もないのですから自我なんて幻想ですので、ただ単に、自我が強ければ「私が許す」とするしかないし、自我が弱まれば自然に「神様(自分も実は含まれる)が許す」という観点になるのは自然なことだと思います。この辺りを勘違いしてしまうとモラルハザードになってしまう可能性がありますので難しいところではあると思います。勘違いして「自分が許す」とか言ってしまうと「自分が後で許すんだから何をやってもいい」とか考えてしまう人もいらっしゃるかもしれませんが、自分が酷いことをしたらカルマの法則で自分が後で酷い目にあうだけです。その危険性は置いておいて、ここで言いたいのは、自我の減少に伴って神に対する祈りが瞑想中に自然に出てきた、ということです。

■「好き」の感覚は治まりました
先日から感じていた「好き」の感覚は次第に治まりました。あまりにも波が減って、過去の感情の起伏がちょっと懐かしいような(執着?)気もちょっとするのですが、まあ、これはこれでいいかな、という感じです。瞑想中も「喜び」はほとんど感じなくなりました。次の段階に進んできたのでしょうか。

■「好き」の感覚と第3禅定、第4禅定
「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」に基づきますと、第3禅定で「喜悦感から離れて平安(捨)な心になる。幸福感はまだあります」と言います。第4禅定で「最後に残った幸福感さえもなくします。と言っても不幸になるのではなく、苦、喜び、憂いなどはとっくに消えていますので、心は不苦不楽の本当に清らかな平安(捨)の状態になるのです。しかも、心はこの平安状態をしっかり確認して、気づき(念)は途絶えません。喜びや幸福感さえも静まった心の平安だけを味わいます。」とあります。私が「好き」の感覚が治ったということは、この第3あるいは第4禅定のどちらかに来ていると思われます。

「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」はテーラワーダ仏教ですがチベット仏教系の「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」にも同じようなことが書かれています。第3禅定で「よろこびの感情のない幸福感(捨)」が達成されるとのことです。

私はおそらく第3禅定なのかなと思っております。「何かがちょっと足りない」感じがあります。

「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によりますと、第4禅定で「4つの限りない心(四無量心)」を得ると言います。

  • 慈しみの心(慈、じ)
  • あわれみの心(悲、ひ)
  • 他に対する喜びの心(喜、き)
  • 平静な心(捨、しゃ)
そして、第3禅定には「感覚の基体(意)によって生まれる心の快楽と苦痛」という欠点があると言います。上記の第4禅定に足りていないところはこの辺りかなと思います。心の平静さに落ち着いてはいるものの、どこか、心の奥底でかつての喜怒哀楽を懐かしんでいる気持ちがまだあるのです。きっと第3禅定と第4禅定の違いはそのあたりにあるのかなと思います。

■「意識で感じること」の補足
先日の「感じること」の補足です。
「意識で感じること」と「(五感の)皮膚で感じること」とは別物です。記事で扱っているのは前者の意味です。

■アートマンはどこにいる?
瞑想中、先日読んだ「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」に従って禅の十牛図「身心脱落」(先日の記事 )から「純粋観察者(真我、アートマン)の出現」を目指して、瞑想中に心を平穏にしてからアートマン(純粋観察者)がどこにいるのか探してみました。最初は胸のあたりかなと思ったのですが、胸は確かに「暖」と言えるくらい暖かい状態ではあるのですが、アートマンがそのものかどうかどうかはよくわからず。感覚で探ってみたら、胸の前から顔の少し前にかけて浮かんでいる? ような気がしました。私の体より少し前方に、体と少し重なって丸く存在? 楕円で、顔の前くらいから胸のちょっと前あたりまで。まあ、これはまだ様子見です。まだちゃんと見つけた気はしません。