■懐かしい欲求
かつて戯れていた、かつて楽しんでいた、かつて欲していた。その懐かしい気持ち。
懐かしい何か。忘れてしまった何かを取り戻したいという微かな欲求。
その欲求が、ひらひらと瞑想の只中でそよ風のように私の中に流れている。
それは、かつてあったもの。かつて私の中に、当然として占めていたもの。
その欲求はもはや風前のともし火となり、懐かしい欲求として秋風のように微かな風としてしか私の中に残ってはいない。
そのそよ風は、私の心の水面を軽く揺らしている。
水は無意識であり、無意識の表面が心だとすれば、私の心を今揺らしているのはかつての懐かしい欲求であろう。
無意識は、懐かしい欲求によって微かに揺られている。と同時に、私の心も揺さぶられている。
しかし、その欲求は瞑想の中で、やがて強さを失って消えて行った。
完全に消えたかどうかは分からない。しかし、先日よりも確かに弱まっている。
欲求がおさまるにつれ、心は平穏になってゆく。
ふと、周囲の家から子供の楽しげな声が聞こえてきた。週末の夜だ。
瞑想中にそれが聞こえてきてもいい。その楽しそうな声があろうとなかろうと、私の心は平穏そのものだ。
相当な騒音ではない限り、瞑想の状態はそう変わらない。
心を揺らすのは、今や息をする時の観察する心のみ。
息をするとき、心がそれを観察している。すると、観察する時の波紋が心に広がる。それのみ。
言い換えると、無意識という湖の表面である心に微かな波紋が広がって、やがては波紋は消えてゆく。
懐かしい欲求はかつてその何倍もの波紋を作っていた。しかし、今や自分の息を観察する波紋のみになった。
■無意識の水面の下
今、ようやく、無意識という湖を覗き込んだ。しかし、中はまだ濁っている。
水面が静かになっても、今まで無意識が風によって動いていたために、無意識がまだ濁っているようだ。
もしかしたら、これは十牛図で言うところの見牛における「微かに牛を見つける」と言うことなのかもしれない、とふと閃いた。
これから、平らな水面を保持した時、無意識の中が見えてくるのだろうか・・・?
まだ、無意識の湖の底は見えない。
湖のように、風のない日々が長く続けば続くほど汚れが湖底に沈んで無意識の水が澄んでくるのだろうか?
水面は、以前は波立ちやすいサラサラとした液体のようだった。小さな風で大きな波紋ができていた。
今は、水そのものというよりは、透明ではあるものの、粘質がある液体のようになってきた。
粘質があるので、風が吹いて波紋が広がってもすぐにその波紋は静まってしまう。それでいて透明な液体。不思議な感覚だ。
そもそも風があまり強く吹かないので、波紋がほとんど広がらない。
これは、オーラの質とも関係しているのでしょうか? そんな気がしなくもないです。
■静か
瞑想の中だけでなく、瞑想が終わってからも世界が静か。
息を感じるだけ。息が心を揺らすだけ。風が窓から入り、皮膚を撫でる。その感覚が心を揺らすだけ。
その感覚に、特に付け加えることもない。何かを付け加えようとすれば蛇足になるだけだ。
ただ静かにいるだけ。それだけでいい。
■過去の記憶を探る
無意識はヨーガで言うところのサムスカーラ。いわゆる過去の記憶。
無意識を探ると思わず叫びだしたくなるものも眠っている。なるほど、これが魔境か。
思えば、昔から常に探っていた。
無意識からの追憶はこの段階に限ったものでもないが、今は静けさと共に探ることができる。