サムヤマの謎(サンヤマ、綜制)

2019-08-05 記載
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

サムヤマ(サンヤマ、綜制)とはヨーガスートラで述べられているもので、ダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こるとそれはサムヤマ(サンヤマ、綜制)と呼ばれますが、これは謎が多いです。

ヨーガスートラによると、サムヤマによって「知識の光」が来る、と言われています。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)

それにより、物の知識や人の心、未来や過去生に関する知識を得られると言います。同書によれば、言葉や意味や知識の上にサムヤマを作ることでそれらの知識が得られると言います。また、カルマの根源であるサムスカーラ(印象)の上にサムヤマを作ることで過去と未来を知ることができると言います。と言うことは、サムスカーラ(印象)を作り出した原因の過去の出来事を知ることができるのと、未来に関してはタイムマシン的な意味はなくサムスカーラ(印象)がもたらすであろう未来を垣間見ることができるのだ、と解釈できます。ただ、未来に関しては私の解釈で仮説です。別のヨーガスートラ解説書「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」には未来に関することはスルーされていました。過去であればサムスカーラですからその理由を考えれば明らかですが、未来を知ることができる、と言うのは謎が残ります。私の解釈が正しいのであればそれはそれでいいのですが、それでも、サムヤマの正体が全て明らかになったわけではありません。特に、「サムヤマとはサマーディとどう違うのか?」と言う点が明らかではありません。サマーディでは知識は来ないと言うのでしょうか? どちらも知識が来るのであれば、何が違うのでしょうか?

神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」には幾つかのポイントが書かれてあります。

3章4番)「集中と瞑想と観照が一つの連続的な行為になったとき、サンヤマが達成される。」これを達成することで、ヨーギは対象とそれが覆い隠しているものとの違いを見分けるようになる。彼はすべての覆いを貫いて、その背後にあるリアリティーに接触するようになる。つまり、二重性についての役立つ知識を達成したのである。

とあります。ここで「覆い隠しているもの」とは、そうとは明言してありませんがおそらくヴェーダで言うところのマーヤのことかなと思われます。流派によってはマーヤの覆いは特定のサマーディを達成することで取り払われると言われています。例えばヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」には以下のように、ニルビカルパ・サマディでマーヤの覆いを破ることができると書かれています。

マーヤのヴェールを引き剥がすことは、創造の神秘を解き明かすことである。こうして宇宙の実相を見た者こそまことの一神論者であり、ほかの者はみな、異端の偶像を崇拝しているのである。人は、大自然の二次元的幻影のとりこになっている間は、二面のマーヤの女神に仕えねばならず、唯一のまことの神を知ることはできない。人間の中に働く欺瞞的マーヤをアヴィディアといい、無知(迷い、”つみ”)として現れる。宇宙的幻術(マーヤ)も人間的無知(アビディア)も、知識による分析や確信だけでは決して破られるものではない。それは、ニルビカルパ・サマディという意識状態にはいることによってのみ破ることができるのである。

言い方は違いこそすれ、サムヤマとニルビカルパ・サマディの間に共通点がありそうな気が致します。

ちなみに、ヴェーダの学派によっては知識のみで悟ることができてサマディは不要と言う流派もあるようですので、上記の記述は参考にこそすれ、それほど鵜呑みにする必要もないとは思います。とは言いましても、各流派の言い分にはそれぞれ真実が見え隠れするのが興味深いところです。

「魂の光(アリス・ベイリー 著)」に記載してあるダーラナ(集中)とディアーナ(瞑想)とサマーディ(三昧)の定義はよく聞く定義と基本的に同じで、集中とその集中の継続がディヤーナ(瞑想)であり、心(チッタ)が対象と同一化することがサマーディだと記されています。ですから、基本的には同じなのですが、同書で興味深いのは、サマーディのことを「観照」だと言っている点です。

別の書物、例えばスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」では以下のように説明しています。

4章1〜3番)ダーラナーとは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の不断の流れが、ディヤーナである。それがすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。

同種の定義を見ることが多い気がします。「形を捨てて、意味だけを映す」と言う定義では、サマーディはとても謎の多いものになりますが、「魂の光(アリス・ベイリー 著)」のように「観照」だとすればそれは明らかです。その意味に基づくと、ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)は顕在意識(いわゆる”意”)で行うものであり、サマーディは無意識(いわゆる”識”)で行うものだ、と解釈できます。止観と言う観点からすれば、ダーラナとディヤーナで止が達成され、サマーディで観が達成される、とも言えます。

ここまで来れば、サムヤマが何なのか謎が大分解けてきます。

・ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)でマインド(顕在意識)を固定する。
・サマーディ(三昧)で魂の領域から観照する。

「魂の光(アリス・ベイリー 著)」にはサムヤマの状態について説明が記されていますが、これらの前提があれば読み取ることができる一方で、なければ読み解くのがかなり難解な文章になっています。細かくは同書にも色々と書かれてありますが、マインド(顕在意識)と魂(の領域と同書は言っている。無意識)の両方で物事を認識することがサムヤマだ、と解釈できます。

であれば、サマーディはサムヤマの一面を取り上げたまでであり、サマーディを達成することができればサムヤマもおそらくは達成できると解釈できます。

少し謎が解けてきました。瞑想中に時々視界に(おそらく太陽の光とは別の)光を時々感じるのは、もしかしたらこの種の光なのかもしれません。まあ、ただの魔境の光かもしれませんので油断は禁物ですけど。



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