ヨーガの瞑想では瞑想中に見たり聞いたりするものは重要ではないので無視するように指導されます。
類似のことが仏教においてもありますが、わかりやすい説明がありましたのでメモしておきたいと思います。
瞑想中に生じる明るい光は、サマタ瞑想において、ただ純粋な集中を通して起こり得ます。また、それらはヴィパッサナー瞑想の洞察智によっても起こり得る。理解がたいへん明晰で鋭くなるので、あなたは自己の内側に、非常な輝きを感じるのです。(中略)一部の人は、ブッダの姿や安らぎに満ちた景色といった、それぞれ異なったイメージを見ることもあります。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)
この2種類の指摘は面白いです。ヨーガでも似たような説明がありますね。同書は次のように続きます。
場合によっては、それを解釈しても構いません。しかし、解釈は重要ではない。(中略)こうしたイメージは、ニミッタ(nimitta)と呼ばれます。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)
以下は同書で引用している聖典の言葉です。
色々なものを見た時、それが何であれ、ただそれらに気づきを入れるか、あるいは注意を払うだけにして、何事も解釈しないようにしてください。というのも、解釈する時、あなたは考えていることになる。考える時、あなたは気づきと集中を失って、マインドフルネスの水準は、下がっていくことになるのです。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)
これは明確な指摘だと思いました。イメージや音は心が生み出しているものなので現在の心の状態を知る手助けにはなるが、それよりもマインドフルネス(ヴィパッサナー、気付きの瞑想)の状態を保つことが重要とのことです。
■クンダリーニ・ヨーガや仙道での光
クンダリーニ・ヨーガの流派によっては瞑想中に見える光の中に飛び込んだりするらしいですけど、私はよくわかりません。
同様に仙道でも似たような行法があったりするようですが、こちらもわかりません。
これ、瞑想中に見える光のことではなくて、幽体離脱の時にサハスララあるいは後頭部あたりからいわゆる魂が抜け出る時に見える光というか目印になる「いわゆる」光(のようなもの)、抜け出る方向を示す、方向指示器のような・・・、あるいは、三次元の目から幽体の目に切り替わる(というか両方動いているが幽体の目が優勢になる)タイミングで過渡的に光が見える感じがする、そういう、いわゆる「光」でしたらそういうのもあるのかな、と思うのですが、瞑想中に見える光に飛び込む、というのはどうもコンテキストが違う文脈を一緒くたにしている気がします。普通に瞑想している時に見える光に関しては無視でいいと思います。