ヨーガ・スートラのディアーナ(瞑想)とゾクチェン

2019-11-23 記載
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

先日ゾクチェンの3つの境地を引用しましたが、タマスな瞑想についての記事を踏まえますとヨーガ・スートラの瞑想について別の視点が現れて来ます。

ヨーガ・スートラでは以下の段階で瞑想が進んでゆきます。
・ダーラナ(集中)
・ディアーナ(瞑想)
・サマーディ(三昧)

■ヨーガ・スートラでのディアーナ(瞑想)
ヨーガ・スートラではディアーナ(瞑想)について様々な解釈がなされていますが、そのうちの幾つかは以下のようなものです。

心が12秒間集中することができるなら、それはダーラナーであり、十二のそのようなダーラナーはディャーナであり、そして12のそのようなディャーナあ、サマーディであろう。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」
瞑想では、時間には何の意味もない。そして空間も失われる。あなたは自分がどこにいるのかを知らない。(中略)真の瞑想では、身体さえも忘れ去れられる。あなたは時間と空間を超える。(中略)心が身体意識を超える。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」

これを読む限り、ヨーガ・スートラの瞑想とはダーラナ(集中)の延長線上ということになります。
そしてその後にはサマーディが来ます。ヨーガ・スートラではサマーディについて以下のように記しています。

サマーディ(三昧)とは、ディアーナ(瞑想)そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」

ヨーガ・スートラではサマーディについて様々に記述されていますが、ディアーナ(瞑想)からサマーディへの飛躍があり過ぎような気がしています。

又、ディアーナ(瞑想)を文字通り実行するには誤解が入り込む余地があり過ぎます。このあたりはグルがいれば回避できる問題なのかもしれませんが、文章を読むだけですと以下のような落とし穴にはまる可能性があるような気が致します。

・ディアーナ(瞑想)でタマスな瞑想に嵌まり込んでそれで終着地点だと思ってしまい、次の段階へ進めなくなる。とは言いましても瞑想をする前に比べたら十分に清々しい境地ですのでこれが無駄とは言いませんが。
・ディアーナ(瞑想)が「無になること」「意識をなくすこと」「眠りのような無意識になること」が最終地点だと勘違いする可能性がある。

この状態は落とし穴ではあるものの、一旦はその境地に達する必要があると私なんかは思っております。ただ、その境地に留まらずに次のステップに進めばいいのですが、そこが終着地点だと勘違いしてしまうと成長が止まってしまうのかなと思います。瞑想を始めた最初は雑念が多くてダーラナ(集中)から初めて雑念を抑えていくのが普通だと思いますし、であればその方法を進めてゆけば「無」「意識をなくすこと」「眠りのような無意識になること」に一旦はたどり着き、そこを超えて先に進むはずです。それらの状態は否定する必要はなくて、単なるマイルストン(道標)として使えばいいわけです。ヨーガ・スートラの記述をそのまま真に受けますとそのような落とし穴もありますが、基本はそれでいいのかなと思います。おそらくヨーガ・スートラで重きを置いているのはダーラナ(集中)くらいまでで、その先はわかるようでいてわからない記述になっていますので、この辺りは実践しつつ確かめてゆくものなのでしょう。

・ヨーガ・スートラで述べられている瞑想(ディアーナ、タマスな瞑想)とサマーディ(三昧)の間に飛躍がある。あるいは、ヨーガ・スートラで述べられているディアーナ(瞑想)に2種類ある。

飛躍があるとはどういうことかと言いますと、上に引用しましたように「ダーラナ(集中)の延長」という記述もあれば、「意識と時間を失う」というタマスな瞑想的な解説もあれば、その一方で、瞑想とは観察だ、という記述や解説も多くあります。

■集中と拡大
解釈によっては、ダーラナ(集中)が「集中」でディアーナ(瞑想)が「拡大」だとする説もあるようです。

凝念(ぎょうねん、ダーラナ)は集中的であるのに対して、静慮(じょうりょ、ディアーナ)は拡大的である。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」

■ゾクチェンを踏まえたヨーガ・スートラのディアーナ(瞑想)とサマーディ(三昧)
ヨーガ・スートラだけではよくわからない部分も、ゾクチェン等の知識を踏まえますと別の視点が現れてきます。

・ヨーガ・スートラで述べられているディアーナ(瞑想)はゾクチェンの「シネーの境地」に相当。いわゆる「タマスな瞑想」に相当。沈み込むような瞑想。想念や雑念の減少。寛ぎ。穏やかさ。インドの言葉で「シャマタ」。「無」の境地。これはダーラナ(集中)からディアーナ(瞑想)に移行した最初の兆候だと解釈できます。多少は観察できていますが、まだ集中が優勢な状態。
・ヨーガ・スートラで述べられているディアーナ(瞑想)の別の側面はいわゆる「ラジャスな瞑想」あるいは「拡大的」な瞑想。ゾクチェンの「テクチュの境地の入り口」だと解釈できます。「一点集中」から「観察」へ移行し始めた段階です。
・ヨーガ・スートラで述べられているサマーディ(三昧)はいくつかありますが、低次のサマーディ(三昧)はゾクチェンの「テクチュの境地」。いわゆる「サットヴァな瞑想」。「観察」の瞑想。集中していない。「対象」と「心」の区別がなくなる。
・ヨーガ・スートラで述べられている高次のサマーディ(三昧)はゾクチェンの「トゥガルの境地」に対応。

こうしてゾクチェンの段階を踏まえますと、ヨーガ・スートラをそのまま解釈しただけでは見えないものが見えてきます。