瞑想における集中の意味合いの変化

2020-01-03 記載
トピックスピリチュアル

古典的なヨガの瞑想では眉間のアジナ・チャクラ(サードアイ)や胸(ハート・チャクラ、アナハタ・チャクラ)に集中するように言われますが、私にとって、昔と今ではその意味合いが変わってきました。

かなり昔は、集中とは雑念から引き離す行為であり、「一点」への集中という意味合いでした。眉間でしたら眉間にのみ集中し、胸のハートでしたらそこに意識を合わせる、と言う感じでした。雑念に囚われている時は集中が途切れていました。

今は、集中... と言えば確かに集中ではあるのですが、範囲が広範囲になってきました。

雑念が減ってきて体の各所を随時観察できるようになり、日常生活上のヴィパッサナー瞑想も可能になってきたのと時期を同じくして、瞑想中に集中しようとするとかつての集中とは異なってきているのを感じます。

それは、以前のように針の1点に集中すると言う種類のものではなく、体全体を覆っているオーラの揺らぎを抑える、と言う種類のものに変わってきたように思います。

ですから、焦点として... と言いますか、ある種の力点と言いますか、支点のような役割として眉間などを集中のポイントとして利用する必要は多少はあるのですが今までのようにそこだけに意識が行くわけではなく、ヴィパッサナー状態で体全体を観察しつつ、支点としての眉間を使いつつ、体全体のオーラに起きている細波のような振動を抑えて静かにしてゆく、と言う意味合いで集中の力を瞑想中に使用するようになってきたように思います。

それは以前とは変わらず「集中」と呼ぶこともできますし、説明が難しいですので言葉として表現する時はやはり「集中」と言ってしまうことが多いと思いますし、説明の時間があまり取れない時は「集中」と表現しておけばとりあえず良くて、それほど間違っているわけではないのですが、1点に集中すると言う意味合いにおいての「集中」とはちょっと違った集中の使い方を最近の瞑想ではするようになってきました。

瞑想の初期段階においては雑念を抑えるために集中(サマタ)が重要で、やがてそれは観察状態(ヴィパッサナー)に移行したように思いますが、ここに来て、ヴィパッサナー瞑想の中に再度、ちょっと違ったサマタ(集中)っぽい要素が入ってきたことが興味深いです。