仏教では禅定、いわゆるサマーディを色界(物質界)と無色界(非物質界、平たく言えば心の世界のこと)に分けていますが、涅槃はその両者を超えたものだと以下の経典から解釈致しました。
「第一涅槃関係経」―無縁―
比丘たちよ、このような境地(涅槃)があります。そこには地もなく、水もなく、火もなく、風もなく、空無辺処(くうむへんしょ)もなく、識無辺処(しきむへんしょ)もなく、無所有処(むしょうしょ)もなく、非想非非想処(ひそうひひそうしょ)もなく、この世もなく、あの世もなく、月・太陽の両者もありません。比丘たちよ、私はそこに来ることも、行くことも、止まることも、没することも、生まれかわることも説きません。これは、拠り所のないもの、生起のないもの、所縁のないものです。これがすなわち苦の終わりです。(「パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む(片山 一良著)」)
私は仏教を専門に勉強したわけではありませんが、涅槃について、おそらくそうであろうな... とは思っていたのですが、この経典を見ますとそれが明らかだと解釈できたわけです。
まず、地・水・火・風は物質界を構成している要素ですから仏教的には「色界」のことで、平たく言えば「物質は関係ない」と言っているわけです。その後、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処と言っていますが、これは仏教的には「無色界」のことで、平たく言えば「心の世界」になります。
仏教の世界でこれらを言う際は禅定、いわゆるサマーディとセットで語られることが多いように思います。
まずは物質界(色界)の禅定・サマーディによって心を安定させ、その後、心の世界(無色界)の禅定・サマーディで心を更に安定させて行くわけです。
諸説あって、悟りのためには物質界(色界)の禅定・サマーディだけでよくて心の世界(無色界)の禅定・サマーディは任意(オプショナル)だと言う意見もテーラワーダ仏教の「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」などを読むと書いてあったりしますけど、同書によりますと、それでも、両方の禅定・サマーディを極めてから悟りに至ることが多いようです。
であれば、上記の経典を平たく言いますと、「涅槃は物質界および心の世界、両方を超えたものである」と言えるわけです。
だから、色々と列挙して「〜ではない」と一つづつ語っているわけですね。
この、否定形で羅列する言い方はベーダンタとも似ていますね。
心の世界を超えてしまうと拠り所がなくなり、否定形でしか表現できないものになる... というはよく理解できます。
これはこれとして表現としては正しいですが、やはり、否定形の表現はよく分からないお話になってしまう気が致します。
これと同じことを表現するために、ヴィパッサナー瞑想的な表現をした方がいいかな... というのは個人的な感想です。
心の世界を越えると、というのは、心の動きを止めると、ということですし、そうしますと心を超えた感覚が出てきて日常生活がヴィパッサナー状態に遷移してゆきます。
それを表現すると、心を超えた感覚とは物質でもないし心でもないので否定形で表現するしか無くなってしまうわけです。
なかなか表現って難しいですね。
悟りって、本当は凄く単純なことだというのが実感ですし、表現もそうあるべきだと思いますが、表現とはなかなか難しいですね。