ゾクチェンのテクチュの境地がヴィパッサナーのスローモーション体験

2020-01-13 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

半分は推測ですが、そういうことではないかな、と思います。先日にゾクチェンの3つの境地を引用しましたけれども、テクチュについて以下のようにあります。

テクチュの境地とは、思考から離れた心の本性があらわれてきた状態のことです。(中略)むきだしになった心の働きのことを「リクパ」または「認識」と呼びます。(中略)あなたがテクチュの境地に留まり、リクパの認識が輝いているとき、対象とあなたの心を媒介していた思考は消え去ります。つまり、対象とあなたの心のあいだに設けられていた垣根が消え去るのです。対象とあなたの心の区別ができなくなり、対象があなたの心で、あなたの心が対象だという心の状態が生まれてくるのです。「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」

前半では重要なゾクチェン用語「リクパ」が出てきます。おそらくは、リクパとはヴィパッサナーのスローモーションな観察状態のことを意味しているのかなと思います。と言いますのも、その後に「媒介していた思考は消え去ります」と書いてあるからです。

更に続く説明には、「対象とあなたの心の区別ができなくなる」と書いてありますが、これはヨーガでいうところのサマーディの状態のことを言うように思います。となれば、サマーディはかなり多くの種類がありますが、このヴィパッサナー状態もサマーディの一部であるとヨーガ 的には言えるように思います。ヨーガでのサマーディの種類および定義は沢山ありますが、ヨーガ・スートラにはこのような「対象と心の区別がなくなるとき」にサマーディになる、と言うような定義が書かれてあったように思います。

サマーディは悟りではなく中継地点ですが、それがゾクチェンで言うところのテクチュの境地であるとすればスッキリします。

ただ、同書をみますとその1つ前のシネーの境地でも表現としては似ていますので、人によってはこのヴィパッサナーのスローモーション状態をシネーの境地だと判断する人もいるかもしれませんね。この辺りは、ゾクチェン的な視点で見るのであればゾクチェンのラマ僧に見て判断して頂くのが本当は一番良いのでしょうね。

今のところ、本を読んだ限りの推測のお話です。それでも、このテクチュの境地はとても興味深いものがあります。



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