サマーディとは思考なしに対象をありのままに観察(ヴィパッサナー)すること

2020-01-13 記
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

サマーディという言葉が神秘的に語られ、その内容が昨今は迷走しているように思われます。

サマーディに到れば悟るかのような誤解がスピリチュアル業界に多く見受けられ、その一方で、サマーディとは一体なんぞや? というところが様々に解釈されているような気が致します。

このお話は先日のゾクチェンにおけるテクチュの境地の続きですが、テクチュの境地の説明を元にすれば、サマーディとは本来、思考が止まって対象をありのままに認識(ヴィパッサナー)する状態であると言えます。

これは、半分は私の解釈ですので、他の人に言っても通じないかもしれません。

ヨーガ・スートラには以下のようにあります。様々な訳がありますのでいくつか引用します。

(1-41) そのヴリッティ(ス)がこうして無力になった(制御された)ヨーギーは、(さまざまの色の対象の前におかれた)水晶のように、うける者、うけること(の道具)、およびうけられるもの、(「自己」、心、および外界の対象)が集中して同一になる。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)
(1-41) 自然の透明な水晶がかたわらに置かれた物の色や形をとるように、作用が完全に衰微したヨーギーの心は、澄明・静然となって、知る者と知られるものと知との区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディ[三昧]である。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」
(1-41) [定(じょう)の定義と種類] かくして心の作用がすべて消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器具(心理器具)、認識対象のうちのどれかの上にとどまって、それに染まる。これが定と呼ばれるものである。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」

ヴリッティとは心の揺らぎのことで、1-40番までは心を鎮める方法が記されており、その最後にこうして心が鎮まった際にサマーディが現れる、と記されています。

その説明の中に、ヨーガの説明でよく見かける3つの要素、「見るもの(Seer、Self、プルシャあるいはアートマン)、見られるもの(Seen、Prakriti、プラクティ)、見る手段・道具(Seeing, Instrument of Seeing)」があります。

この説明はなかなか謎めいていて読み解くのが難しく、そのまま読むと神秘的なトランス状態の認識だとか色々な解釈ができてしまいますが、ゾクチェンの定義を流用しますとこの説明は明らかです。

その意味するところは、「思考なしに、見る者が見る対象をありのままにスローモーションのようにはっきりと観察(ヴィパッサナー)すること。」となります。その状態がゾクチェンで言うところのテクチュの境地に相当するものだとすれば、サマーディとヴィパッサナーとテクチュの境地とはほぼ同一の境地を表現しているのだと解釈できます。

その前提に立てば、ヨーガ・スートラのサマーディの定義もよく理解できます。

サマーディの定義は以前、いくつか引用しました。その中の幾つかを引用します。

(3-3) 静慮(じょうりょ、瞑想、ディヤーナ)が、外見上、その思念する客体ばかりになり、自体を無くしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である。「ヨーガ根本教典(佐保田 鶴治 著)」
(3-3) それ(瞑想、ディャーナ)がすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)

こうしてサマーディの定義だけを見ると神秘的なイメージが拡大され、サマーディがまるで悟りそのものであるかのような誤解も生じたりするかもしれませんが、ゾクチェンのテクチュの境地を前提にしますと、これはいわゆるヴィパッサナー状態であると解釈できます。以前少し書きましたように、これは単なる視覚による観察ではなく、オーラによる観察とも言える状態なのかなと思います。

その前提でヨーガ・スートラを読むと、また違った解釈ができてなかなか面白いです。

サマーディには色々と種類があるようですが、おそらくはこれが基本になるのではないかなと。

またもや1つ、謎が解けてきました。

ただし、これは主観的な個人的な解釈ですけれども。