先日は座った瞑想で準備をして日常生活でヴィパッサナー瞑想を行うような感じでしたが、今日の座った瞑想ではヴィパッサナー的な感じになりました。ただ、やはり体の感覚は感じにくいのか、視覚ほどはっきりとわかるヴィパッサナー瞑想にはなっていない感じです。とは言いましても、座った時に感覚が細かくわかることで一応はヴィパッサナー瞑想になっている気が致します。
ヴィパッサナー状態で視界を観察したり音を聞いたりするよりも、感覚は微細でわかりにくい感じが致します。もともとの感覚と同じといえば同じで、ヴィパッサナーになっているといえばなっているかな... という微妙な感じではあります。
とは言いましても、これで、座っていても視覚のスローモーションのヴィパッサナー瞑想と同じ観察が感覚に対してもできることが一応は確認できました。
とりあえず、ヴィパッサナーは視覚を中心に行うのが良さそうです。
視覚はいつもそこにありますので、最初こそスローモーションのような不思議な感じがしておりましたが、慣れてしまえばこれが普通かな... という感じで視覚を認識しております。
視覚が以前のようにコマ送りではなく細かく認識されるのがヴィパッサナー状態ですが、もしかしたら、もともとこのくらいの動体視力を持っている人にとっては当たり前のことかもしれませんね。そんな気がしてきました。
と、言いますのも、日常生活上のスローモーションのヴィパッサナー状態が可能になって約3週間経ちましたが、次第にこの状態に慣れてきたからです。
私の場合は変化があったために違いを感じましたが、変化がなければおそらくは自分の認識が普通だと思うことでしょう。
日常生活を楽しめている人とそうでない人の違いはこんなところにもあるのかな... と思いました。
ヴィパッサナー状態であれば日常の変化だけで人生が楽しめるのに対し、そうでなければ日常生活に変化はなくて頭の中の考えが何度も続くだけですので面白くない人生と感じて遠くの何かを追い求めたりします。
ヴィパッサナー状態であればありきたりないつもの道も毎回その変化を感じて視界の微妙な変化ですら楽しむことができますが、そうでなければ同じ道としか感じずに面白くない人生になります。
これは、昨日や前回と同じかどうか比べてどうこういう話ではなく、最初であっても2回目であっても10回目であっても変化を楽しむことができるのがヴィパッサナー状態ということだと思います。
思うに、ヴィパッサナー状態を封じてしまえば人間がロボットになって「消費」という罠にはまり込んで経済を回し続けるので消費させたい人にとってはヴィパッサナー状態なんて邪魔かもしれません。
まあ、このあたりは、気付く人だけが気付いてラットレースから抜け出すのでしょう。