テーラワーダ仏教では、第二禅定からサマーディ(三昧)と呼ぶようです。
仏教やスピリチュアルの書物などで禅定がサマーディの訳になっていたりして混乱することもあり、個人的には禅定はサマーディではないという理解だったのですが、どうやらテーラワーダ仏教は上記のような解釈をしているようです。
第二に達したならば、(中略)このときはサマーディ(三昧)と言います。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」
テーラワーダ仏教に基づく禅定の四つの段階を簡単に羅列してみます。
・第一禅定
欲・怒り・眠気・浮つきと後悔・疑いという五つの蓋が外れ、心がものすごく冴えて集中する。(中略)心だけの純粋な喜悦感と幸福感があります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
・第二禅定(サマーディ)
思考も消えているので集中力はますます上達しています。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」
「心を集中する」という自分の努力を突き抜けて、集中は持続したまま、自然に「心が統一された」本当の意味での禅定状態が生まれます。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
・第三禅定
「喜び」という波動もなくなって「楽」だけ感じるようになります。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」
喜悦感から離れて平安(捨)な心になります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
・第四禅定
楽という波動も消えて「平安」とも言える感覚のみが残るのです。集中力は禅定の順番に従って強くなります。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」
最後に残った幸福感さえもなくします。(中略)心は不苦不楽の本当に清らかな平安(捨)の状態になるのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
サマーディという言葉の定義が私と異なっていますが、まあ、テーラワーダ仏教のこの部分は把握しておりませんでしたので仕方がないですね。
個人的には仏教のサマーディの捉え方はどうもピンときません。私はヨーガ系の定義を基本にして個人的な解釈を加えています。
以前にサマーディという言葉の2つの意味について書いた内容はテーラワーダ仏教の定義ではなく個人的な解釈に基づいておりますので、読み手にちょっと混乱があるかもしれませんね。
まあ、そもそもヴィパッサナー系の流派によってはサマーディをあまり重視していない感じですので、ヴィパッサナーとサマーディが同一だと思っている私とはそもそも解釈が違うので仕方がないと言えばそうなのですが。