いつシッディが現れるか(同テーマ&時系列の前記事)

サマーディの不二の境地からシッディが副産物として現れてくる

2020-02-15
トピック: スピリチュアル

ゾクチェンの本にも似たようなことが書かれてありました。
仏教やヨーガスートラにも似たようなことが書いてあります。

今までは、ほんとにそれだけかな? 他に何か謎があるのでは? という疑念や探求心が生まれていたのですが、最近は思考が止んでヴィパッサナー状態になってスローモーションを感じたり距離感のない景色を感じたりしていますので、これが不二の境地だとしたらサマーディであり、そのまま続けていたらやがてはシッディも可能なのでは、という直感が出てきました。

昔は、同じ文章を読んでもそれがシッディに繋がる実感を持てませんでした。

特に最近は、自らの進んでいる道に疑いがなくなってきました。

今はまだシッディとかほとんどないですけど、それらの能力は特に秘密でもなくてヨーガスートラや仏教やゾクチェン書いてある内容がそのまま正しい気がしてきました。

シッディは秘密でもなくて書物でも明らかに公開されているが実践は難しいので謎めいている、という種類のもののような気がしてきました。

ヨーガスートラではサムヤマという謎めいた手法と共にシッディが紹介されていますが、おそらくこれを読んだだけでシッディを表すことは難しいのではないでしょうか。サムヤマとは以前謎解きをしましたけど、サマーディの応用のようなものです。

そのサマーディも、ヨーガスートラの中では完全に説明されていないような気が致します。

であれば、ヨーガスートラに書かれてあることはおそらく正しいとしても、ヨーガスートラだけで目的地に到達はできないのだと思います。

仏教の経典も禅定やサマーディに関しては謎に包まれています。仏教の経典を読んでシッディが現れるとは思えません。

しかし、ゾクチェンはそのあたりを明らかにしており、それにより、私のサマーディに対する疑いは晴れて、いわゆる不二の意識でヴィパッサナーをするということ、それはサマーディと同じだと個人的には思うわけですが、そのサマーディの意識でヴィパッサナー状態にいることこそが私を次の段階へと導いてゆくのだと確信のようなものが生まれつつあります。

「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。(中略)もちろん、そのためには三昧が確固たるものである必要がある。そうでなければ、そもそも何かと一体のものにするということ自体、無意味だ。(中略)「いささかも疑いがない」という言葉は、このことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

私は人間の師匠を見つけることができずにいて(いるにはいますが)、自分の状態が本当にサマーディかどうかは自己判断にすぎませんが、そうだとしてもこの境地の先にはまだまだ続いていることがはっきりとわかりますのでサマーディでなくてもこの先を見極めてゆくだけのことです。そこに疑いはほとんどなくなってきています。その状態をサマーディと呼ぶかどうかは割とどうでも良いのです。

同書によれば、サマーディを日常生活に取り入れてゆくと次のような変化が現れると言います。

最初の能力である(中略)チェルドルは、「観察すると、それはみずからを解放する」ということを意味し、水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのにたとえられている。(中略)ただ単に覚醒した知恵を保ち続ければいい。そうすれば、生じてくるものはすべて、そのままみずからを解放するのである。(中略)シャルドルは中間的な能力であり(中略)「生じると同時に解放する」ことを意味している。(中略)究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、(中略)これは完璧に二元論を超えた、瞬時の、瞬間的な自己解放である。主体と客体の分離は自然に崩壊し、習慣となった見方、区切られた鳥籠のような自我の罠は、存在そのもの(法性)の、空のような顕現の中に解き放たれる。(中略)対象が生じると同時に、それがみずからの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。(中略)すなわち主体と対象はいずれも空である、ということになる。二元論は完全に克服される。主体や対象が存在しないというわけではない。とだえることなく三昧が持続し、自己解脱の修行をつうじて、二元論に限界づけられなくなるのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

そして、同書によれば、この過程で出てくる副産物がシッディである、とのことです。

すなわち、二元論を克服して初めてシッディが出てくるわけです。

であれば、ヨーガスートラの内容は舌立たずであるにせよサマーディとは不二の意識のことですからサマーディでシッディが出てくるのは当然だと言えますし、仏教の第四禅定にしてもそれはサマーディの不二の意識にまで高まったと仮定すればシッディが出てくるのも当然と言えます。

私の中で長らくモヤモヤしていた部分が、ゾクチェンによって明らかにされました。



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