大切なのは不二の境地に至ることでありますから、そこに至るまでは何に頼るにせよ疑わないことが大切なのだと最近は思います。
ヨーガスートラで心の死滅をうたっておりますが、その効果を疑い、サマーディを疑い、そうしてどこにたどり着くというのでしょうか。
仏教にしても、八正道などを疑わないことが大切なのだと今は思います。
これらのことは文章で読むととても平素な言葉で書かれており、やもすれば、そんな簡単な当たり前のことだとしてスルーしてしまいがちになります。
しかし、いわゆる悟りだとか幸せだとかいうものはその、とてつもなく当然で当たり前のところにあるのだと特に最近は思います。
その根元は不二の境地というところになりますが、不二の境地とはいわゆるサマーディ(三昧)のことであり、サマーディというと超常的な何かをイメージしてしまいがちな人もおられますが、単に清浄なる心のことだと言い換えることもできます。八正道などで心を清浄にすれば物事がクリアに見えてきて、雑念なくありのままに見えるようになって、その状態を人はサマーディと呼ぶ、と、ただそれだけのことなのだと思います。
もちろんサマーディと呼ぶ基準はありますし、清浄なつもりでサマーディのつもりでサマーディではないなんてこともあります。
しかし、基本は、とても当たり前なところにあるわけです。
何か、特別な不思議なことをしなければ辿りつかないものではないと思うわけです。
ですから、大切なものは当たり前のところにある・・・ それを疑わない心が何よりも大切なのかな、と最近は思います。
その当たり前の境地は失われやすく、やもすれば単なる教訓や道徳のようなものになってしまいがちなところをいわゆる奥義としてまとめたのがヨーガスートラやウパニシャッド(ヴェーダの最後の奥義、ヴェーダンタ)、あるいは仏教の経典なのだと思います。
ただ、人の性質に応じて修行方法としては様々なものがあって、好きに選択できるとは思っております。疑わなければ勝手に成長するかと言えばそうは思いませんし。ですが、基本はこの辺りかなと思うわけです。