少なくとも私は想念、いわゆる思いや考えが出てくるとスローモーションのヴィパッサナー状態が解除されます。
よく瞑想の本に、考えや思いが出てきても妨げずにありのまま観察します、なんてことが書いてありますが、少なくとも私は無理です。
おそらくはこの種のお話は二つのことが入り混じっているのかなと。
・思いや考えが出てきても否定しないでください。
・思いや考えに意識が向いていることに気が付きましょう。
これは瞑想の基礎のお話です。
それを「観察します」とか言われても、言葉が間違っていると私なんかは思うのです。これは、「観察」とは言わない気がします。表現の違いだけであれば、そういうことだと思います。
「観察」なんて言われると、まるでヴィパッサナー状態で考えを妨げずに観察することだなんて解釈してしまいますけど、それはかなりの上級者向けのお話だと思いますし、私の場合、完全にそのように観察するのは無理です。
意識の半分をスローモーションのヴィパッサナー状態に保ったままもう半分の意識で考えや思いを観察する、ということはできますが、その場合、スローモーションの観察で認識できる景色のコマ数が半分くらいに落ちて、カクカクな飛ばし飛ばしの映像で視界が認識されます。
ですから、同じようにスローモーションで完全に認識したまま思いや考えを同時に完璧に観察することは私にはできないのですが、もしできたとしても上級者向けのお話かなという気が致します。
想念だけであればしっかり観察できますので、想念に対してヴィパッサナー瞑想している、と言えなくもありませんが、想念の場合は映像と違ってどのくらいの速さで認識しているのか分かり辛いために本当にきちんとヴィパッサナー状態でいるのかどうかなかなか判別が難しいという面もあります。
想念はいわゆる心(マインド)が認識するものですので、視界に対するスローモーションのヴィパッサナー状態では心(マインド)が停止して、その奥にある認識力(いわゆるアウェアネス)が働いて視界をスローモーションで認識しますので、そうであれば、心(マインド)が想念を観察するというのは視界に対するスローモーションのヴィパッサナーとはちょっと違うのかな、という気もしています。
もしかしたら、ヴィパッサナー状態で想念を観察する際は思いや考えという論理を司る心(マインド)のような認識ではなくて、もっと根元に近いものを直感で把握するという種類の認識になるのかもしれません。このあたりはまだ仮説ですけど。
ですが、割と上級者の書いたと思われる瞑想の記録には想念を観察してどうこうするというお話も書かれてあった気がしますので、そのコンテキストから言えばスローモーションのヴィパッサナーで想念(思い・考え)を観察する、というのもあるのかもしれないな、というくらいの認識で頭の片隅に置いてあります。