別々ということが分からなくなることが同一の意識

2020-03-10 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

スピリチュアルやヨーガでは「他者や周囲の物と同一だと感じられる意識の状態になります」と言われたりします。

ヨーガではこの状態のことをサマーディと呼び、スピリチュアルではトランス状態だとか天使と繋がっている状態だとかハイヤーセルフと繋がっている状態だとかキリスト意識だとか様々に表現されていますが、きっとそれらは同じ状態を様々に表現しているのだと思われるのです。

ただ、表現の違いと言えばそうなのかもしれませんが、私の最近のスローモーションのヴィパッサナー状態やサマーディの状態を率直に言い表しますと「同一である」という意識状態ではありません。かと言って「別々だ」という意識状態でもありません。言い表すならば、「同じかどうか分からない。別々かどうかもわからない」という意識状態になっています。これをきっと便宜上「いわゆる同一の意識」としているのかなと思います。

最初は「別々」という意識状態なわけですが、そのうち「いわゆる同一」という意識状態に達します。ただ、それはもともと「別々」だったので「同一」と一応解釈しているだけで、実際はきっと「同一かどうかすらわからない。別々かどうかもわからない」状態であって、それを便宜上「同一」と表現しているに過ぎないと思うのです。

実際にはそれとは別に「同一な気がする」という前段階があって、そこでワンステップ踏んでから「同一(同一か別々かわからない)」の状態に進むわけですが、その前段階はとりあえず置いておいて、ここでは本来の意味における「同一」が実際は「同一か別々かわからない意識」のことなのだと解釈しています。

1.別々
2.同一な気がする(サマーディの前段階)
3.いわゆる同一、サマーディ。同一かどうかすらわからない。別々かどうかもわからない。

自分の実際の意識を観察すると、まず、分離の意識では「別々」は明確にわかります。・・・たぶんわかった筈です。最近はあまり分離の意識にならないので昔の記憶に基づいたことですけど、たぶん、明確に別々だったような気が致します。

次に「同一」というものですけど、既に繋がってしまっているのでどこに切れ目があるのかがわかりません。意識がそこにまで通ってしまっているから同一な気もしますが、同一かと聞かれたらそうかもしれない、というくらいにしか答えられません。自分の体のどこが同一なのかも良くわからないのと同様に、サマーディの状態で周囲のものや人を観察した時に同一か別々なのか良くわからない状態になるのであって、周囲のこれとこれが同一だ、みたいな明確な意識を持てるわけではないと思います。明確な意識というのは分離の意識ですのでそれは「同一」の意識ではないと思います。

意識の状態はクリアですけど、分離しているかどうかという点に関しては非常にわかりにくいと言いますか、その、「良くわからない」という状態そのものが古来から「同一の意識」と呼ばれてきたのかな、と解釈しています。

意識で説明しますとわかりにくいかもしれませんので肉体を例にして説明しますと、例えば自分の体を見てみた時に、肉体の一部が他の一部と同一かどうかを判断することなんて出来ないと思います。どちらもいわゆる「(肉体の)自分」と言われていますが、例えば、右腕と左腕がどちらも「じぶん」であることをどうやったら知ることができるのでしょうか。それは難しい・・・ と言いますか、「良くわからない」「なんとなく同一な気がする」というくらいの認識になるのではないでしょうか。肉体と外を分けて、右腕と左手も両方とも内側だから両方とも自分だ、という理屈は成り立ちますが、ここで言いたいのはそういうことではありません。ここで言いたいのは、サマーディの状態で自分と周囲が同一になることと、自分の体の一部と一部が同一であることは似たような認識になる、ということです。

理屈を抜きにして認識だけを使った場合、自分の体の一部と他の一部が同一であるかどうかは明確に同一であるかどうかは「認識」出来ず、「認識」できるのは「同じかどうかわからない。別々かどうかわからない」という認識になって、それを便宜上「同一」と呼んでいるに過ぎないと思うわけです。

サマーディも、似たようなものです。周囲と明確に「同一」という意識になるのではなく、「同じかどうか分からない。別々かどうかもわからない」という意識になったらそれはサマーディだと思います。言い換えれば、「じぶん」という意識が良くわからなくなったらサマーディと言っても良いかもしれません。