全集中の呼吸はクンダリーニとテクチュのサマーディ・ヴィパッサナー状態

2020-03-20 記
トピックスピリチュアル

漫画「鬼滅の刃(きめつのやいば)」で「全集中の呼吸」と言うのが出てきますが、本編で詳しい解説はないものの、私個人の勝手な解釈と言うか想像ですとこれはクンダリーニとサマーディの融合状態ですね。

ちなみに、私は武術とかやりません。勝手な想像です。よもやま話です。たまにはこう言う話もいいかなと。

まず、呼吸と言っていますけどこれはヨーガとかでも良く呼吸が言われていて、ヨーガスートラやハタヨガプラピディカでも「呼吸」が大事と言われていますけど、この「呼吸」は翻訳の妙で、実際はプラーナと言う微細なエネルギーの制御になります。呼吸で空気を取り入れると言う面もありますが、プラーナを取り入れて力にするのです。

であれば、全身呼吸とか言っているのは、プラーナを全身に巡らせることになります。いわゆる気やオーラのことです。

気脈とか経絡とか言われているエネルギーのルートを、ヨーガではナディと呼んでいます。その主要なものが背骨沿いにあるスシュムナとその左右にあるイダとピンガラですが、漫画ではここまでは説明していませんでしたね。

まずクンダリーニがそのスシュムナを通るのが第一歩で、その後、体全身に気脈と言うかエネルギーを通します。そうしてエネルギーの通り道であるナディが全身で活性化します。

そうして活性化すると、まず最初は集中状態に達します。この順番は集中が先だったり活性化が先だったりしますが、ともかく活性化と集中が実現します。この集中状態はチベットのゾクチェンで言うところのシネーの境地と言われているもので、いわゆる普通の集中状態を意味します。この状態ではまだ全身に意識が通っていません。

その後、ゾクチェンで言うところのテクチュの境地に達すれば全身に意識が通った状態になり、漫画で言われているいわゆる「全集中の呼吸」といわれている状態に到達します。

剣で集中して刃を振るうのがゾクチェンのシネーの境地。
体全体に意識が通って全集中の呼吸をするのがゾクチェンのテクチュの境地で、これはサマーディとかヴィパッサナー状態と言い換えても良いです。

全集中常中とか言われているのはテクチュの境地が高まって日常的にサマーディ(ヴィパッサナー)を保てるようになった状態を意味します。最初は意識しないと全集中の呼吸が保てませんが、そのうち普通になるわけです。ですから、漫画の中では実際に息の呼吸で全集中の呼吸を24時間するような描画をしていますが、実際にはこれは呼吸というよりもエネルギー的なものですから、全身にエネルギーが満ちてサマーディ(ヴィパッサナー)状態が常時保てるようになったらそれでいいわけです。訓練の仕方も、ああいうスパルタもあるのかもしれませんけど、それよりも瞑想した方が手っ取り早いような気も致します。

そうして、物語の中で「日の呼吸(ヒノカミ神楽、始まりの呼吸)」とか言われているのはゾクチェンの次の境地であるトゥガルの境地であり、いわゆる悟りに近い状態になります。

まあ、漫画ですので完全に一致しているわけではなくて、本当にその境地に達していたら主人公の表情も本来は違う筈なんですけど、そこは漫画ですし面白くドラマティックに描かないと人気が出ないでしょうからそこまでは突っ込みませんけど、それでも、この漫画はこのあたりを勉強したかもしれない人が書いているのではないかと思わされますので興味深いです。

この辺りを踏まえますと、漫画の中の鬼殺隊のメンバーのほとんどがクンダリーニ覚醒者で構成されていることになります。更には、「柱」と言われている主要メンバーはゾクチェンのテクチュの境地以上を極めていることになります。

主人公である竈門炭治郎(かまどたんじろう)が悟りの境地に近いトゥガルの境地を達成して「日の呼吸」を使い、これからきっと鬼の親分を退治することになるのかなと思います。ここはまだ物語は進行中ですので想像ですけど、そうであれば全体として辻褄が合います。

漫画に色々と求めすぎてもなんですが、時代的に、人の心の中に入り込んでいる鬼をどのように人一人が退治してゆくかと言うテーマに沿って解釈すると、この時代にこの漫画が人気が出ているのも興味深いものがあります。

まあ、漫画のよもやま話なので厳密性を求められてしまうと困りますが、なんとなく気になったところをつらつらと書いてみました。



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