サマーディの不二の意識とシッディの謎解き

2020-03-28 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ヨーガでシッディと呼ばれるいわゆる超能力は悟りに至る副産物でありそれ自体を追い求めるものではないと良く言われます。ヨーガスートラでもそのようなシッディを求める態度を諫めております。

単語 シッディ は通常は力という意味だが、それは実際には進歩したヨーギの達成を意味 する。ヨガの力を習得することが目標ではないということを理解するのは生徒 にとって重要です。実際にそうではなく、そうすべきではありません。 それらは神に至るための努力の副産物です。 力だけを求めている人は自我に縛ら れ、最終的にこの浄化の欠如のために苦しんでいます。初心者の学生にとってはヨガの力を持つことはなかなか魅力がありますが、これは、力によって堕落 することがあるという理解に置き換えられます。最終的にそこで得られた力は、誠実なヨギにしてみたら単なる気晴らしや誘惑に過ぎないのです。「MEDITATION and Mantras(Swami Vishnu-Devananda著)」

それはそうだなと思うのですが、実際、サマーディやヴィパッサナーとシッディとの関係が今ひとつ腑に落ちないでいました。

基本的にはサマーディから現れるとなっています。ゾクチェンによる理解でも同様になっていました。

今回は、そのゾクチェンの続きです。

前回では基本的な理解としてサマーディと二元論を超えてサマーディに至ることが確認できました。理論的にはそれでスッキリしました。

同書を更に読み込んでいくと、現在の自分の状態との対比がよく分かります。仏教でもヨーガでも悟りやサマーディが語られていますが、ゾクチェンほど悟りに至る境地を詳しく表現しているものを見たことがありません。

ゾクチェンでは、基本的なサマーディ・ヴィパッサナー状態に達した後に何をすることで悟りに近づくのか明確に記してあります。

前回にも引用しましたが、まず、基本的な自分のサマーディ(三昧)の境地を日常生活のすべての行動に溶け合わせていくことが必要だと説明されています。

「セワ(sre-ba)」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧(サマーディ)の境地を日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

その後、前回に引用したようなチェルドル、シャルドル、ランドルと言う3つの能力が育ってくると言います。3つの能力を読むと色々と書いてありますけど、要はサマーディが深まってくる、と言うお話だと思います。

そして、明確に以下のように記してあります。

二元論の幻影は終わり、主体と客体の再統合をつうじて、修行者には五つの神通(ンゴンシェ mngon-shes)、つまり五つの「高度の知覚」があらわれてくる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

ここで現れるシッディは仏教やヨーガとほぼ共通のもので、千里眼などの能力です。似たような説明はヨーガや仏教にもありましたが、ゾクチェンはことのほか分かり易いです。

この経験が悟りに向かって深まっていくにしたがって、いくつかの能力があらわれてくる。だが、そういった能力がそもそも何なのかを理解するには、いかにして二元論の幻影が、諸感覚の主体ー客体の二極化によって維持されているのかを理解する必要がある。(中略)まず、視覚の場合を例にして考えてみよう。視覚は、視覚的な形態として知覚されるものと相互依存的に生じてくるし、また逆に、知覚される視覚的な形は、視覚能力と共に生じてくる。それと同じように聴覚と音はともに生じてくる。(中略)意識と存在は相互依存的に生じる。(中略)主体は潜在的に対象をふくみ、逆に対象は主体をふくみながら、二元論の幻影が自己を維持しているということ、そしてついには、意識をふくむあらゆる感覚が一体となって、知覚主体と切り離された外的世界の幻影をうみだしているようすが理解できる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

このお話、それ自体はヨーガや仏教でも語られています。しかし、シッディとは割と切り離された文脈で説明されているように思います。ゾクチェンではこの説明がシッディとサマーディのお話と有機的に繋がっているところが単なる理屈だけでなく実践者が多くいて生きている流派であることを感じさせるのです。

まずサマーディ(ヴィパッサナー)の基本的な状態で二元論の克服の入り口に至り、次に日常生活とサマーディを統合することで「観察(ヴィパッサナー)、サマーディの別の面」に至り、観察(ヴィパッサナー)・サマーディによって「解放する(二元論の克服)」(チェルドル、シャルドル、ランドルの3つの能力)ことを深め、二元論の幻想が解かれる過程でシッディが現れ、そして悟りに至るわけです。

ヨーガでは二元論の幻影の克服のお話が割と早い段階で論されますし割と有名なお話のようにも思いますが、それは本来はサマーディ後のお話であるわけです。

この順番であるならばサマーディや二元論の克服なしにシッディだけ求めても無駄な努力に終わることが明らかです。可能であるとすればそれは修行ではなく魔術や秘術の類ですから私はあまり興味がありません。一方で、せっかく二元論を克服しかけたのにシッディに囚われると悟りへの道を踏み外すと言うのも良く分かります。

ヨーガスートラなどではすごく簡単に、サマーディを達成すればシッディが得られる、としか書いておらず、仏教でも似たようなものだったのでなかなかに謎めいていたのですが、ゾクチェンはしっかりと書いてくれています。

であれば、私は日常生活におけるヴィパッサナー(サマーディ)をこのまま続ければ良いことが分かります。



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