ヨーガ・スートラという古典の聖典にはサティアについて書かれてあります。
この言葉は正直を守り通すことを現している「解説ヨーガ・スートラ(佐保田 鶴治著)」
2-36) 正直(サティヤ)に徹した者には、行為とその結果がつき従う。「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」
2-36) 誠実の境地に定住すると、そのヨーギーは、彼自身および他者のために、あるはたらきをしないでそのはたらきの果実を手に入れる力を獲得する。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」
サティアは割と最初の方に出てきますし、日本でも「嘘をつかないこと」として道徳として語られていますので割と当たり前のこととしてスルーしてしまいがちですが、この当たり前とも思えるところにサマーディへの鍵が眠っているような気も致します。
これは、道徳として当たり前であっても、実行するのは難しいことです。解説書を見ますと基本的には「嘘をつかないこと。正しく話すこと」として説明されています。しかし、本質は、それよりもずっと瞑想的・サマーディ(二元性の克服)的であると思うのです。
以下は神智学系の解釈です。
真実であるためには、(触覚できる、客観的な、もしくは言葉という)形態が神性をどの程度まとっているかを正しく見抜く能力が必要である。また、真実をありのままに伝える形態を構築する能力も必要である。(中略)そしてそれは、(このスートラで述べられている)能力につながる。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」
ここに、「神性」とあります。サティア(正直)であるためには、神性を見抜く必要がある、というのです。であれば、サティアは単に「嘘をつかないこと」よりもずっと深いものであると言えます。そして、神性を見抜くことは単に基礎でしかない、と言います。
そうであれば、神智学系の以下の意訳の方がしっくり来ます。
2-36) すべての存在に対して完全に真実になったとき、言葉と行動の効果が直ちに現れる。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」
あるいは、本質と顕在意識の違いがないことであると言っても良いと思います。その方が、単に「嘘をつかないこと」というよりも意味が明確であると思うのです。