集中(サマタ)瞑想を否定する流派

2020-05-04
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

サマタ瞑想でまず行き着くのはいわゆる「止(シャマタ)」の境地であり、ゾクチェンでいうところのシネーの境地であって、その先にテクチュの境地やトゥガルの境地があります。仏教やヨーガではそのシネーの境地に相当する状態を通ってからその先のテクチュやトゥガルの境地に達します。

しかし、サマタ瞑想を頑なに否定する流派がこの世の中には存在しています。サマタ瞑想、例えばヨーガ・スートラ等で述べられている静寂の境地を否定して、頑なに、時にはヒステリックに、時にはマウンティングしてサマタ瞑想を否定する方がいらっしゃいます。これはある程度は根拠があって、サマタ瞑想のシネーの境地を通らずにいきなりテクチュの境地やトゥガルの境地に達することも可能なわけです。ただ、一般的にはそれは難しく、普通はシネーの境地を通るのが無難かと思います。

テクチュや最終的なトゥガルの境地はヴィパッサナーの状態であり、特に、ヴィパッサナー系の流派やヴェータンタの流派がそのような主張をしています。その主たる主張では、「(シネーの境地で)心を停止させたら、それは人間と言えるのだろうか?」みたいなことが言われていて、それはそれで理に叶っています。

一部の仏教やヨーガ派の人たちはシネーの境地に相当する状態で心を停止させさえすれば最上の状態になると誤解して信じ切っておりますので、そのような誤解している人たちに対する反論としては正しいです。しかし、どちらもお互いの一面を見ているだけでしかなく、仏教やヨーガ派の一部の誤解している人たちはシネーの境地の先をきちんと見てテクチュやトゥガルの境地に進むべきですし、ヴィパッサナーやヴェーダンタを信奉している人たちの中には仏教やヨーガを誤解している点があることを学ぶべきです。

仏教やヨーガであってもシネーの境地相当が最終的な悟りだとは言っていませんし、シネーの境地であるシャマタ(止)が最終的な悟りだというのは良くある誤解でしかありません。その、良くある誤解を持ち出して「それは悟りではない」とか外から指摘しているように思えるのです。

お互いに色々と言い合っていますけど、普通はシネーの境地ですらなかなか辿りつかないので、要らぬ心配でもあります。その先のテクチュの境地であるいわゆるヴィパッサナーな状態も同様だと思います。

であれば、相手の流派についてどうこういうのは時間の無駄ではないでしょうか。
そんな論争する暇でもあったら自分の修行でもしたらいいと思います。

と、言いますのも、どちらにせよシネーの境地あるいはテクチュの境地に達すれば理が分かるわけですから。

世の中には生まれながらにある程度の境地にいる人がいて、そのような人が例えばシネーの境地が生まれながらに当たり前だったりするとシネーの境地を否定してテクチュの境地のヴィパッサナーだけを良しとするかもしれませんけど、一般的にはシネーの境地を通るのが普通だと思います。

世の中にはシネーの境地すらうまくできない人が大勢いらっしゃいますから、シネーの境地であるシャマタ(止)を否定しても、それは修行者を混乱させるだけかもしれないわけです。基礎としてシネーの境地があってその境地が最終的な悟りではないことを示唆するために否定するのならばわかりますが、全く否定してしまうのは違うと思います。シネーの境地を否定したら、ふにゃふにゃの集中できない状態しか残りません。

生まれながらにきちんとシネーの境地で集中できていて、その上で、自分が当たり前なことに気が付かずに集中することを否定してしまって相手を混乱させている方がいらっしゃる一方で、受けた教えを盲目的に信じてシャマタ(止、集中)を否定している方もいらっしゃいます。前者は勘違いなので仕方がないかなあ、とも思うのですが、後者はちょっと微妙ですね。

スピリチュアル初心者でも運良く最初から本物の教えを受けることがあるわけで、それが高度なヴェーダンタですとかテクチュやトゥガルの境地だったりしますと、それは確かに集中(サマタ)ではありませんので、教えをする過程においてその説明の表現では集中(サマタ)瞑想を否定したりもしますけど、それは通過点としてのサマタ瞑想を否定しているわけではなくてただ単に説明してるだけなのですが、スピリチュアル初心者はその辺りのことを良くわかっていないのかなんなのか、言葉通りにサマタ瞑想を否定してしまったりするわけです。

流派として伝統的にサマタ(集中)を否定している流派もありますけど、おそらくは創始者あるいは過去のどこかの点でそこのマスターがそのように説明したのでしょうね。きっと創始者やマスターはわかっていると思いますけど、流派として伝統的な団体になってしまうと伝言ゲームで教えが異なってきたりもしますよね。

シネーの境地は基礎ですから、その先を語って説明する時にはシネーの境地を否定する表現になってしまったりもしますけど、階梯としてのシネーの境地を否定するかどうかは別の問題であるわけです。

生まれながらにある程度の境地にある人は自分の認識としてはシネーの境地を通らずにテクチュの境地であるいわゆるヴィパッサナーの境地に達したりするでしょうし、そうなればシネーの境地を否定するかもしれませんが、それを言ったところで、瞑想の初心者を混乱させるだけだと思うのです。

ただでさえこの辺りはごちゃごちゃしていてわかりにくいのに、このようにサマタ(集中)瞑想を否定する人たちが一定数いて、集中を否定するような説明があると初心者が訳わからない状況に陥ったりします。

その上、集中を否定するようなヴィパッサナーの流派の教えを見てみるとぜんぜんヴィパッサナーじゃなくてサマタ(集中)瞑想を自分たちでしていたりしますし。実態が集中瞑想なのに集中瞑想を否定しているなんてわけがわからないです。まあ、全てではなくて、そういうところもあった、ということです。

学ぶ側としましては、自分の感覚と比べて理解できるところだけ理解して、不思議なところは判断を保留する態度が必要だと個人的には思います。

スピリチュアルや宗教では基本的にこのような態度が必要だと思います。宗教と言うと盲目的に信じることだと思われていますけど、信じるかどうかは自分次第です。私はある程度は信じた方が成長は早いと思いますけど信じるかどうかは自由意志に委ねられていますし、信じた内容が正しいかどうかを考えても良いわけです。瞑想なんてのは心の中の出来事ですから、きちんと自分の内面と向き合わないと変な流派に囚われてしまったりしまいますしね。

この辺りは人によりますので好きにすればいいと思います。この世は自由の世界で、良くなるのも悪くなるのも全部自分次第で、いかようにもなります。