神に善悪はなくて、ただ選択と行動があるだけです。神が善だけを行うというのは幻想で、神は何をしても良いのです。今の神様は人々に精神的なゆとりと成長を期待しておりますので、人間が調子に乗って他人や自然などの環境をないがしろにすると「立ち止まりなさい」というメッセージとして災害や人災が起こります。大抵の大きな災害の背景には手引きしている霊的な存在がいて、その霊的な存在が高次の存在なら神と言われることもありますが、同じことです。
本当に上位の神になると人間界のことなんて興味がありませんので人間は放っておかれます。
人間界に介入してくる神はそれよりもちょっと人間に近い神で、人が成長する過程で神に近づいた魂たちです。例えば有名どころでいうと松下 幸之助とかですね。ああいう偉大なことをした人は神に近づきます。もともと神に近かったというのもあります。
人間が死後に神に近づいて、更に成長すると神と呼ばれるようになります。そのような、半人半神の存在が人間界に介入してきます。そして、それは善悪はあまり関係なくて、その魂の意図を実現させるために介入してきます。
大抵の場合、人間は災害の意図を理解できませんから、そのような災害があっても単に謙虚になるか自然を更に支配しようとするのかのどちらかに揺れ動くことになります。そこで人が振り分けられるわけですね。
どちらがいいというわけでもなく、好きな方を選ぶわけです。
その災害を神の審判と言うのならばそうでしょうし、単なる自然災害だと思うのならばそれはそのような意識で生きることになります。その人にとってはそれが真実で、それぞれ、そのような意図を実現したい神がそれぞれにつく事になります。直接的、間接的ではあっても神の意図があって、それぞれの神に振り分けられてゆくわけですね。
今までの中世以降の歴史は、神の審判があると神に逆上する、と言う事の繰り返しでした。
まず神の意図を謙虚に受け止めて他人に伝える人がいますが、それを聞いた人は謙虚さがそれほどないことが多く、謙虚さがそれほどない人が神の意図を更に他人に伝えるとそれを聞いた人が逆上する、と言うことの繰り返しでした。
神は純粋な形でこの世に現れることはなくて、濁った中に現れるわけですね。
他人の中に神を見た時に、人間としての悪い部分を見てしまってもキリがなくて、神の部分だけを見ればいいわけです。人間としての部分は切り捨てればいいと思います。そうしないといつまでも逆上するループにはまり込んでしまいます。