魂の成り立ちを理解してどこから魂が生まれてどこに行くのか知る事

2020-05-10 記
トピック:スピリチュアル: 輪廻転生

悟りへの過程で「幸せ」だとか「平穏」などと言うものも達成されますが、それと合わせて、自分の魂の成り立ちを事実として確信してわかるようになります。

魂、いわゆるスピリットの認識が生まれ、スピリットとしての見識が生まれ、スピリットとしての視界が生まれ、スピリットとしての聴覚が生まれ、世界をスピリットの統合体として理解し、それらのスピリット、特に自分のスピリットがどこから生まれてどこへ帰ってゆくのか、どこへ行くのか。その過去と未来を知ることができるようになります。

確かに、「光の世界に入る」だとかゾクチェンでいうトクガルの境地だとか言うのもありますけど、その辺りになってくると自分のスピリットが動き出して自分が何者なのかをはっきりと認識し、それゆえに迷いもなくなり、自らが生まれた理由も行き先も知る事になるわけです。

ですから、その内容はもちろん人ごとに違うわけで、自分の場合の成り立ちと行き先をはっきりとスピリットとして認識できるようになって、その上で、単なる運命論とかではなくて自分の頭できっちりと考えて自分のスピリットがどこへ向かうのか考えることができるようになります。

ですから、「心の平穏」だとか「心の平和」とか言うのは、割と補助的なものになると思います。もちろん「集中力(サマタ)」とか「観察(ヴィパッサナー)」なんてのも悟りの一面を現しただけです。

スピリットとしての認識が生まれれば肉体としての五感は一段階「別」のものとして認識されますが、それは別にスピリットから見て上とか下とか階層で言い表すものではなくて、単に違うものとして五感が存在しています。スピリットからの視点が出てくればヴィパッサナーとかになりますけど、それが優越であるわけでもなくて、単に、それぞれの視点があるだけです。

そもそも死んだ後はスピリットとしての視点だけになって肉体は滅びますので、ほとんどの人はスピリットとしての聴覚や視覚を持っています。ですから、特に心配しなくても誰でもスピリットとしての認識力はあるわけですけれども、人によっては「この人生の間は使わないで頑張ってみます」みたいなお約束をしていて、そのような人が実はかなりいますのでスピリットなんてないと思っていますけど、単にその視点を意図的に封じ込めて地上での肉体の学びができるようにしているだけで、実際はほとんどの人は大差ないのです。

ただ、そうしてしまうとスピリットとしての視点を忘れてしまって、ちゃんと霊界に戻ればその封印を解いてもらえるのに幽界に留まって再度転生を繰り返したりしているものですからスピリットとしての視点が解放されずに人間的な生活を繰り返すわけです。

死んだ後は幽体になって割と肉体と同じような姿、しかし、自分が一番お気に入りの年齢で存在するようになります。大体は若い時の姿ですかね。そこから再度生まれたり分霊を作って分霊が転生したりしますけど、その状態だと霊界の事をあまり認識できていませんので地上の肉体としての生活を繰り返してしまうわけです。

どちらにせよ死んだらみんな悟れる可能性があるわけですが、生きているうちに混迷を極めてしまうと死んでも悟れません。地上を彷徨う亡霊になってしまったりするわけです。

できれば生きているうちにこの世の理を理解して自分が来た場所と行くべき場所を見極めることができれば大体は悟ったと言っていいと思います。

これ、単なるスピリチュアルのお話に聞こえるかもしれませんけど、単に勉強して知識として知っていることでもなければ信じることでもありませんし、チャネリングのようなもので頭の中にインスピレーションを与えられることでもないです。本当に自分のスピリットが物事や空間だけでなく時空をも超えて見通して直接的に周囲や過去・未来を認識して理解することなので、そうそうできないです。ここまで来れば、自分の魂・スピリットの生まれた成り立ちや目的・行き先までもがクリアになって悩みもほぼなくなるのです。とは言っても日常の小さな悩みは必ずありますのでそれはなくなりませんが、大きな視点ができる事により小さな事に悩まされにくくなるのです。

これらのことがわかれば実は善も悪もないと言うこの世の理が理解できて、自由になるのです。この段階での自由は常人には理解しがたいです。何をしてもいい、と言うのは、スピリットの理に従って生きると言うことでありますし、その状態になれば実は人間の顕在意識は何ら自由意志を持っていない事にも気づくわけです。ですから、悟った後は肉体の頭での自由な選択ではなくスピリットが自由に行動するようになります。肉体の頭はスピリットの選択に従うようになりますから一見したら肉体の頭は従属状態のように見えるかもしれませんが、ずっと昔から、そもそもの原初の状態の最初からそもそも肉体の頭は自由意志を持っておらずスピリットの意思があるだけだったのに自由意志があるように幻影で見えていただけだと気づきます。ですから、肉体の頭が自由に何をしてもいい、と言うのではなくて、スピリットがしたいように自由に生きるようになるわけです。それがこの世の理であり、それを理解したら本当に自由になるのです。

それを仏教では涅槃の知識だとか輪廻転生からの解放だとか言っていますけど、同じ事だと思います。スピリチュアルな観点と仏教の観点が違うだけで、割と同じことを語っているように思います。ヨーガやゾクチェンにしても修行の個人的認識の観点から語っているだけで、行き着く先は同じだと思います。ヴェーダンタだって先日書いた仮説が事実だとすればウパニシャッドはいわゆる「彼岸の知識」を伝えているわけで、同じ事だと思います。

悟り自体は単純ではありますが、単純であるが故に何をもって悟りとするのか、その判断が難しいこともあります。

平穏さも基本的にはやってきますが、疲れや体調不良と同じように精神的な疲れももちろんありますから常にMAX状態にいるわけでもありません。基本的には世間の雑多な出来事にそれほど惑わされなくなります。このような一時的な状態を見て悟りと判断するのは判断を誤らせる事になります。本質的なところでは悟りは能力とは関係がないですし一時的な状態とは関係がありませんが、よりわかりやすくて間違いのない判断基準としては、普遍的なスピリットの理を真に理解できたかどうか、と言う点で悟りを判断した方がいいようにも思います。それ自体が悟りというわけではないにせよ、悟れば高確率でこれらのことも理解して把握できるようになりますから、それなりの確度で悟りを客観的に判断できるような気が致します。