周囲の空間と自分のむきだしの心とを混ぜる

2020-05-18 記
トピックスピリチュアル

チベット語でセワ(混ぜる)は特にゾクチェンで二元論を終わらせるための有効な手段であるわけですが、今まで、その感覚がわかるようでいてよくわからない状態でいました。

スローモーションのヴィパッサナー(観察)が始まって以来、なんとなく周いと混ざるような意識が周囲まで通っているような感覚があったわけですが、それがいわゆる「セワ(混ぜる)」ということなのかなと思っておりました。

しかし、スローモーションのヴィパッサナー状態ではそんな感じにおそらくなっているだろうな、ということはわかるのですが、意識的にセワ(混ぜる)をする感覚が今まで掴めずにいました。

「むきだしの心(リクパ)」とはヴィパッサナー状態で現れる心の本質であるわけですが、それがあって初めて物事をありのままに観察できるわけです。それを、ヴィパッサナー状態でそうなっているだろうということはわかるのですが、意識的にセワ(混ぜる)するという感覚が今まで掴めずにいたのです。

しかし、今日、ふと気がついたのですが、ここでいうセワ(混ぜる)とは周囲の目に見える物体ではなくて、普遍的にこの世界に広がっている空間と混ぜることなのではないか、とインスピレーションがあったのです。自分で気がついたのか、あるいは、密かに守護霊が微かな示唆をしてくれたのか、どちらなのかは不明です。

とにかく、そう気がついたからには試してみたわけです。

元々、セワ(混ぜる)という言葉を読んだ後に試したのは目に見える周囲の物体とセワ(混ぜる)することだったわけですが、それを、周囲にある、何もない、単なる空気の空間と混ぜるということをしてみました。

空気の空間とセワ(混ぜる)をしてみますと、目に見える物体よりは少しやりやすい気がしました。

そんなものかな・・・ と思っていましたら、ふと、それよりも近くに、自分の体という物があるではないか、と気がつきました。

ですので、空気の空間から自分の体へとセワ(混ぜる)対象を変えました。

すると、流石に自分の体ですので、更にやりやすくなりました。

理屈で言いますと、自分の体であってもそれはこの地上に一時的に存在しているものですので「本当の自分」ではありません。本当の自分、ヴェーダンタでいうところのアートマンとかそういう自己の本質、ざっくり言えば魂とかそういうものですけど、魂とかから見たら自分の体であっても外側で、自分の体すらも観察する対象なわけです。

このあたりは盲点でしたね。自分の体と周囲の何もない空気の空間とをまずは手掛かりにセワ(混ぜる)すると良さそうです。