否定的思いを打ち消すために反対である肯定的思いを用いるのは悪いことか?

2020-06-08 記
トピックスピリチュアル

最近は色々と理屈っぽい人が多くなって、古典に書かれてあるこの手法を否定する人がそれなりに世間にいるように思います。

大元のお話はヨーガスートラに記載されています。

2.33 否定的想念によって撹乱されたときは、反対のもの(肯定的想念)が念想されるべきである。「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」

これは古典ですが、最近の精神セラピーでも同様の手法が取られていると思います。

しかし、意外にもこれを否定する人が多いのです。言わんとしていることはわからないでもありませんが、しっかりと理解していないように思われるのです。

まず、これを否定する人の言論は以下のようなものです。

・思いは否定されるべきではなく観察されるべきものだ。
・否定的想念を肯定的想念で打ち消すのは本当の瞑想ではない。それは間違っている。

これらの発言には共通点があって、おそらくはヴィパッサナー瞑想やスピリチュアルな本で学んで感化されて、しかしながらきちんと理解していないのかな、という印象を受けます。

まず、はっきりさせておくべきことは、意識の段階においてそれぞれ何が正しいのかが違うということです。

瞑想は「集中」と「観察」の両方の要素がありますが、集中が出来ていない人に観察だけを示唆しても瞑想はうまくいきません。

否定的想念が出てきたらそのまま放っておけばなくなる、というのは中級者以上のお話です。否定的想念が出てきたら反対の想念(肯定的想念)を出して打ち消す、というのは初心者のお話です。

このヨーガスートラの話を聞くとすぐにヒステリーになって否定しだす人がぼちぼちいて、なぜそんなにヒステリーになるのか私には全く理解できませんが、そのようにヒステリーに否定する人が実際にこの世の中にいますので、そのような人は瞑想の段階としてはまだ理解が全然足りていないのかな、という印象を受けます。

確かに、瞑想の意識が進んでヴィパッサナー状態になると否定する必要もなくて観察すれば良いですし、否定的想念を肯定的想念で打ち消すのは本当の瞑想ではないという人の意見も分からなくはないですけど、私なんかからすればどちらも瞑想で、それぞれ深さが違うだけだと思うのです。

そんなにヒステリーになって否定することもないと思うのですけどねえ。

そういえば最近手に入れた本で以下のような記述がありました。

真の瞑想とは強いることなき自然なものである。物質的なことであれ霊的なことであれ、瞑想から何かの見返りを得ようと、決まった時間に決まった想いに心を集中させることによって、対立するすべての想いを打ち消そうと悪戦苦闘するのが瞑想ではない。「チベット永遠の書(テオドール・イリオン著)」

これ、読む人によって違った印象を与えるでしょうね。

瞑想をよく分かっていない人が読むと「偽物の瞑想があるんだ! 私は真の瞑想を知っている」と思って、偽物の瞑想を吊し上げてヒステリーになってしまうこともあるでしょう。同書では著者が大袈裟に「真の瞑想」とか「偽の瞑想」とか書いているので、これを読んでいる人は真に受けて偽物を吊るし上げようとするかもしれないですね。こういうのはいけないですね。理解不足ですね。

瞑想をよく分かっている人が読むと、「そりゃそうです」としか思いません。特に凄いことが書いてあるわけでもないし、当たり前のことです。

このような、何か凄いことのような印象を与える宣伝が一部でなされていて、それによって不愉快な思いを受ける人がそれなりにいるのは悲しいことです。

以前にも書きましたけど、瞑想に不慣れな最初は力を入れて集中して思いを打ち消すのです。そういうものです。その後、やがてはヴィパッサナー状態になってゆきますけど、それは瞑想がそれなりに進んだ後のお話です。