<瞑想中になんとなく感じたことです>
所詮はゲームなのですから失敗しようが成功しようがあまり変わりがないことです。明日失敗することが見えていたとしてもそれをわざわざ指摘するなんて野暮なことはしないです。
深刻になる、というゲームをみんなが真剣にやっているのにそれを邪魔しちゃ悪いでしょ。遊ぶ時はとことん遊べばいいのです。
芸能人とかでも、おそらくは未来が見えていそうな人はいらっしゃいますよ。
それで、人によっては自覚があって未来が見えると自分で言う人もいるし、単に勘が鋭いと思っているだけの人もいます。自分で未来が見えると思っていても実際には勘が鋭いと思っているだけの人より能力が劣っている場合もあります。
基本的には、みんな何某かの予知能力があると思っていた方がいいですし、わかっていて選択しているのですから、放っておけばいいのです。それもまた勉強というか遊びです。
勉強というと教訓のように聞こえてしまいますけど、教訓なのはそうだとしても、もっと広い視野で見ればそれは単なる人生のお遊びにしかすぎないわけです。
ですから、他人から見て失敗のように見えることがあっても、それをわざわざ指摘なんてするのは影響を与えたいというエゴの仕業かあるいは人生というものがよく分かっていないのです。
放っておけばいいんです。この世界は自由なのですから、成功して楽しむ人もいれば失敗して深刻になることで遊んでいる人もいるんです。もちろんその瞬間においては苦しかったりするかもしれませんけど、それはその人が人生の選択をしてそうなったのです。
この世の中は残酷ですので成功もキリがなければ失敗もキリがないです。
実際、誰かからの助けなんてのはあるようでいてなくて自分で助かろうと思えば一瞬で助かるわけですが、そもそもの動機は何かというと「知りたい」というところにたどり着きます。
悩んでいる人がいるのを見て「なんで悩んでいるのだろう?」と思ったら、人生のとある時、あるいは未来において自分が同じ悩みに落ち込んでその悩みを深く知ることができるようになります。
一方で、金持ちを見て「お金儲けの何が面白いのだろう?」みたいに「知りたい」と思えばそうなります。金持ちも楽しいばかりじゃないということがわかれば金持ちに興味がなくなり、自分もお金がそんなには必要じゃないと分かったりするかもしれません。
そんな感じで、失敗するということは基本的には失敗を知りたいからするわけです。
ですから、失敗してその失敗を深く知りたいと思っている人の邪魔をすることはないわけです。失敗することが目的なはずなのにそれを邪魔しては悪いです。放っておくべきであるわけです。
とは言いましても、そうではなく、単に、本当のアクシデントによる失敗というものはあります。これは、指摘して構いません。目的とは違いますからね。
ですが、普通の人はその差なんてわからないのではないでしょうか?
ですから、基本的には他人の未来が分かったとしても放っておけばいいわけです。