否定形で非我を表現すると自我が分かったつもりになる

2020-06-14 記
トピックスピリチュアル

非我と自我とは似て異なるものなのに、否定形で表現すると自我が分かったつもりになるので満足してしまいますが、実際は非我と自我は相入れないものなので自我が非我を理解することはありません・・・ というと語弊がありますが、非我が現れ始めた後であれば非我と自我がわかり合うことができますが、非我が出てくる前に自我が非我を理解することはありません。その場合、否定形で非我を表現したところで自我が分かったつもりになるだけです。

自我が理解するのはそれはそれで重要な一歩ではあるわけですが、実際に分かったのとは異なる状態ということです。

ですので、分かったつもりになるのは大切なわけですけれども、その理解と非我が働き始めるのとは異なる状態だということです。

たまにはボーディダルマの言葉を引用してみましょう。

この無心が仏だ。この無心を超えて仏は見出せない。この無心を超えて悟りや涅槃は求めえない。「無心」とは、本性の実在、因果の不在をいう。自らの無心が涅槃だ。「ボーディダルマ(和尚OSHO)」

原文には「心」と書いてあるところを解説者が「無心」と置き換えて説明しています。

心が自我だとすれば原文のままですと自分の自我がそのまま悟りや涅槃ということになってしまいます。

・・・確かに、それは最終的な理解においては正しいのですけど、実際はそこまでの意識にない人がほとんどでしょうからこうして否定形を用いることで自我を超えた何ものかが存在することを表現しているわけです。

そうすることでまず自我が納得して、それから、それを実感するために瞑想するなりして確かめるわけです。