ヴィパッサナーを超えた瞑想で自我が戸惑う

2020-06-15
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想の階梯において最初はシャマタ(集中)があり、それは自我が押し留められて自我が一時的に消滅している状態における静寂でした。

そのシャマタ(集中)にも2種類あって、最初はゾーンでの激しい歓喜から始まって静かな歓喜に変化してゆくわけですが、静かな歓喜の状態にある程度留まるとその先はスローモーションのヴィパッサナー(観察)瞑想あるいはカニカ・サマーディ(瞬間定)と呼ばれる状態に遷移するわけですが、その先で、次第に自我を留めおく力が不要になってくると自我が動き出して戸惑うようになります。

シャマタ(集中)の瞑想をしている間は自我が止まっていますので歓喜が湧き起こります。自我が止まると歓喜になるのかと思いきや、慣れてくると歓喜が治ってゆき、やがてはヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディと呼ばれている状態になるわけですが、その状態ではまだ力がどこか入っていて自我をコントロールしている力が入っているわけですね。

おそらくは、そのあたりが自我とそれ以上の存在、いわゆる非我とか無我とかあるいは真我(アートマン)との主従の入れ替わりの段階なのかなと思います。

ヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディの段階ではまだ自我の方が主で真我(アートマン)はあまり動いておらず、せいぜい奥深くの感覚で何となくそれがあるという感じ、あるいは、ヴィパッサナーによって観察しているのがアートマンなのだと何となく認識している段階です。

ヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディを超えた段階で真我(アートマン)が主になって、その段階では自我が従へと入れ替わるのだと思います。

すぐに完全に入れ替わるというよりは、そのあたりの段階でようやく自我のコントロールが不要になって自我を縛っている手綱を緩めることができるのだと思います。

そうして、真我(アートマン)が自我をコントロールするにあたって、自我としては今まで認識していなかった何ものかに自分がコントロールされるのだという、えもいわれぬ不安で戸惑うわけです。

それが、私の瞑想で最近起こっています。

この段階になると、もはやシャマタ(集中)の時のようにどっぷりと瞑想の中に沈み込むというか落ち込むというか時間を忘れて瞑想だけに浸って時間を過ごすという感じではなくなり、意識が常に起きているので自我の戸惑いを幾度となく常に認識するようになります。

昔のように瞑想に落ち込むという感じでもなく、そうなる気配もなく、ただ意識がずっと動き続けるので、もはや瞑想として座る必要もないのではないかと時には思ってしまいますが、それでも座ると多少は違うので座ることは続けています。

この戸惑いは、瞑想を始めた時の雑念に惑わされる混乱とは全く別のものです。

自我がもはや雑念に囚われなくなって、自我が何も活動しなくても良い、と真我(アートマン)から指示されて、それでも時々は雑念に囚われもしますが、自我が何もしなくても良くなって戸惑う時間の方が雑念によって惑わされている時間よりも多くなってきているような感じがいたします。

人によってはこれを恐怖と表現するのかもしれませんが、恐怖というほど怖いわけではなく、ただ単に、自我がどうしていいのかわからず戸惑っている、という感じを受けます。

おそらくはしばらくすれば自我は自らが何もしなくても安全だと分かって落ち着くのかな・・・ という気がしています。きっと時間の問題なのかなと。まだしばらく様子を見てみたいと思います。