流派によって定義が様々で、サマーディとかヴィパッサナー等の用語に差異があります。
例えば、今日ネット配信で見たスワミジ(Swami Muktananda Yati)が言うには以下のようなものでした。
・サマーディは思考を止めること。(パタンジャリのヨーガ・スートラの定義)
・ヴィパッサナーは息を観察すること。ヴィパッサナーはサマーディへの入り口で体験する。
流派によって色々な言い方があるんですね。それに、きっと相手によって簡単な説明を選んでいるような感じです。
話を聞いていると、どうも、サマーディとかヴィパッサナーと言う言葉の意味がこのスワミジは違うみたいですね。
世間では、サマーディ1つだけで悟れるとかヴィパッサナー1つだけで悟れると言う誤解が溢れていますけど、このスワミジはサマーディやヴィパッサナーを瞑想の一面を表す説明として用いています。
瞑想の説明としてはもっと複雑で、サマーディと言うのは瞑想の一面である「思考を止める」と言う説明だけに使っており、一方、ヴィパッサナーは息を観察すると言う説明だけに使っています。
こう言う視点もあるのですね。
何やら、世間ではサマーディとヴィパッサナーの対決みたいになっていてどちらが優れているのかとかどちらで悟れるとか、そんなくだらないお話に熱心になっている人がいますけど、本質は瞑想そのものですから、瞑想の一面を説明するためにサマーディとかヴィパッサナーと言う言葉を使う場合もあるのですね。
まずは瞑想してみて、説明としては色々することが出来て、その時に瞑想の要素としてサマーディとかヴィパッサナーという言葉が使われるだけで、サマーディやヴィパッサナーがゴールではないわけですね。
言葉の定義としては私が普段使っているものとは違いますが、説明の内容からはこのスワミジはとてもよくわかっているという印象を受けます。
ですから、言葉の定義なんて本当はどうでもいいと言えばその通りなのかもしれないですね。
・・・このスワミジ(Swami Muktananda Yati)、私が通ったアシュラムのゆかりのスワミジみたいですけど会ったことがありませんので詳しくは知りません。誰かに聞けば知っているでしょうけど。