凪の状態の先で、深い意識の平穏と寛ぎが訪れる

2020-07-19 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

かつてナーダ音が聞こえ始める直前の1週間ほどの間、意識をギュッと鎮めて意識を止めることでいわゆる「無」の状態に入って安らげるようになりました。今回の平穏はその時の感覚と似ていますが、今回は意識は動いたままの安らぎです。

その時はヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後のことでしたが、夜に眠る時に非常によくリラックスできて深く穏やかに平穏の意識で眠ることができたのを覚えています。

しかし、その安らぎもわずか1週間のものでした。ナーダ音が聞こえてきたのです。ナーダ音は瞑想中の眠りを許さない自動的な意識の覚醒を伴いますのでそのような「無」の感覚は無くなったのです。

最初は、このナーダ音を苦々しく思ったものでした。せっかく「無」の状態になって安らぐことができるようになったのに、どうしてこのような音が聞こえてきて静寂を邪魔するのだろうか、と。

しかしながら、勉強するにつれ、私が行っていたのはヨーガ行者としては行ってはならないとされている「意識の停止状態で寛ぐ」という種類のものだったのかもしれないと思うようになりました。それをわずか1週間でナーダ音が聞こえてきて強制的に解除されてしまったのは良かったことなのではないかと今では思います。

誤解をして欲しくはないのですが、ナーダ音そのものは「ある程度の浄化がされたことによる成長の印」です。しかしながら、それはより微細な世界への扉をも開いてしまい、意識が敏感になってしまったのです。

かつて、ナーダ音が聞こえる前はかなり鈍感だったように思います。感覚もそれほど微細ではなく、その当時の意識を鎮めることができて安らぐことができました。それはそれで成長だったと思います。

意識が静まると微細な世界が私の目の前に開け、そして、やがてはクンダリーニ経験もしてエネルギーは高まってゆくわけですが、微細な世界が開ける前、クンダリーニ経験をする前に「無」を体験した時に感じた安らぎと、最近私が感じている意識の平穏とが割と似通っているのです。

前回は強制的に意識を抑え込んで「無」の状態にすることでリラックスしました。意識はほぼ止まっており、ナーダ音も何も聞こえず、息の感覚だけがするくらいの意識で「平穏と安らぎ」を感じておりました。そのような深いリラックスはそれまでは意図的に作り出すことができませんでしたが、その1週間はすぐに意識を抑え込むことで簡単にその「無」の状態でリラックスすることができました。

それから何年もの間、同種の「無」のリラックスは体験しておりませんでしたが、今回、意識が凪の状態になって瞑想を続けていたところ、意識は働いているにも関わらず昔体験したような「無」の時のリラックス状態がやってきたのです。

リラックス状態は、ナーダ音が聞こえて以降は意識が敏感になっていてここまで深く入ることが難しかったように思います。

しかし、今回は、意識が働いているのにも関わらず同様のリラックス状態になったのです。

前回の時も、今回の時も、「見る」という意味での観察は変わらない気が致します。一方で、前回は強制的に雑多な意識を抑え込んでいたのに対し、今回は自然にしていながら雑多な意識が鎮まっている、という違いがあります。

前回は雑多な意識を抑え込むことで「無」の状態を作り出し、「観察」は動いたままで深いリラックス状態を体験していました。しかしながら、ナーダ音が聞こえてきた後は意識がナーダ音に囚われてしまうためにそのような深いリラックス状態に入れずにいました。

雑念がナーダ音に引きつけられることで瞑想自体はやりやすくなったのですが、雑念を強制的に止めて「無」に入ろうとしてもナーダ音は意識では止めることができないので完全なる「無」には入れなくなってしまったのです。

今回は、雑多な意識が自然に静まる状態まで瞑想を続け、「観察」は動いたままで深いリラックス状態を体験しています。ナーダ音は変わらず聞こえていますが、ナーダ音が聞こえたとしてもそれに反応して飛びつく雑多な意識というものがそもそも鎮まっていますのでナーダ音が聞こえていたとしてもリラックスは邪魔されません。

これは、似ているようでいてかなり違う状態であるように思います。

最初の状態は単に雑多な意識を強制的に抑え込んでいる状態で、それは「無」と表現するにふさわしい気が致します。もちろん言い方は流派にもよるでしょうが、「無」と呼ぶのが個人的には一番しっくりきます。それによってリラックスを体験し、そのリラックスは非常に有益だったように思います。

しかしながら、微細な世界に入り、更にはクンダリーニが動き出してエネルギーが高まるにつれてナーダ音にしろ体のエネルギー的な不調にせよ様々な悩みが出てきたものでした。

ここにきて、エネルギー的にも調和が取れ、意識としてもナーダ音に左右されないリラックス状態が保てるようになったように思います。

ナーダ音は雑念が多い時に瞑想する際は助けになると思いますし、雑念に飛びつくような雑多な意識はナーダ音が聞こえるとそちらにしがみつくようになりますからナーダ音が聞こえ始めたら瞑想が早く進むようになります。

しかしながら、それに頼っているうちはまだ雑多な心が「何かに飛びつく状態」であることには変わりがないのですね。きっとそうなのだと思います。

瞑想が進み、意識が簡単に外の刺激に飛びつかなくなった状態であれば、ナーダ音にも飛びつかなくなります。そうして意識の平穏が保たれる時にようやく微細な意識のままリラックスできるようになるのかなと思います。

まだ荒い意識のままでリラックスできたとしてもより微細な意識に入ることでリラックスが妨げられ、そして、今回、微細な意識の状態でリラックスができるようになったのかなと思います。

ナーダ音が聞こえなくなったわけではありませんが、ナーダ音が意識に入らなくなった状態でもあります。ナーダ音を探せばナーダ音が聞こえますが、そのことによってリラックスが邪魔されることはありません。

ナーダ音が聞こえ始めてからしばらくの間に瞑想をしていた際は、ナーダ音にしがみつくことによって安らぎとリラックスを得る瞑想でした。しかし、今回は、ナーダ音が横にいて、それにしがみつくことなしに達成できるリラックスです。これは似ているようでいて、かなり違う状態であるように思います。



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