ヨーガスートラのような古典では「思考を停止させることがヨーガ」みたいに語られています。
これは普通に読むと「思考を停止させて、それって人間と呼べるのだろうか?」みたいな疑問が生まれますし、一般的には「我思う故に我あり」とか言われていますから、理解するのが困難に思われるかもしれません。
しかしながら、人間の心には2つあることを前提にすれば上記の表現は「低位の意識を停止させることがヨーガ」だということが理解できます。
ヨーガやヴェーダの流派には色々あって、流派によってはこの種の批判をストレートに言っている方もいらっしゃいます。
とあるインドの流派が他の流派に向かって「思考を停止させてしまって、それは人間と呼べるのだろうか」とか批判していたりします。
それぞれの流派にはそれぞれの主張があるのだと思いますし、言葉の意味も流派によってまちまちです。しかしながら、文献を読むときはその流派の用語と主張を踏まえないと読み間違えます。どちらも割と似たようなことを言っているように思えるのにも関わらず自分の流派が正しいと主張していることが多いように私なんかには思います。
言い方はどうであれ、人間には低位と高位の意識があって、低位の意識は止めるべきで高位の意識は目覚めさせるべきなのです。
低位というと欲望かと思われるかもしれませんけど、欲望というよりは五感に属する感覚が低位です。五感を超えた感覚が高位です。
例えばですね、幽体離脱の事例が分かりやすいかと思います。
幽体離脱するときは、だいたい2パターンあるように思います。
1.低位の意識が麻痺状態(トランス状態)になって高位の意識だけが体から抜け出す状態
2.低位の意識が働いたままで高位の意識が体から抜け出す状態
前者のトランスは低位の意識が純化されておらず高位の意識が働くためには低位の意識を停止させなくてはならない場合にこうなります。
一方、後者の場合は低位の意識が十分に純化されておりますから低位の意識と高位の意識とが同時に活動することができます。例えば、幽体離脱して遠くの場所を見たり過去や未来を巡っているのと同時に、肉体の手を動かそうと思えば動かせますし目からは三次元の視野が見えます。この場合、両方見ようとするとどちらも薄らとしていてぼやけた感じになります。意識を五感に向ければそちらが優勢になりますし、幽体離脱の方の意識に集中すれば体のことはほぼ忘れて超感覚が優勢になります。
ここでわかることは、肉体の五感を使った低位の感覚とそれを超えた高位の感覚とは別物であるということです。
これらを、流派によって様々な言葉で言い表しているように思います。
・仏の心と人間の心(仏教等)
・低位の心と高位の心(スピリチュアル)
・ロウアーセルフとハイヤーセルフ(私のいうハイヤーセルフとは意味合いが異なりますが)
・キリスト意識と人間の意識(キリスト教系のスピリチュアル)
・天使(の意識・心)と悪魔(の意識・心)(キリスト教)
多くの人は低位の意識のみで生きていますから、そういう人にとっては「思考を停止させて、それって人間と呼べるのだろうか?」という疑問が出るのはもっともだと思いますが、実は意識には2つあるのだという前提に立てばこのような「思考を停止」という教えもすんなり理解できるのだと思います。