最初は思考を止めます。
ヨーガスートラにあるように思考を止めること(プラスアルファ)でサマーディの状態になります。
しかし、時間が経てば思考があってもサマーディを保てるようになります。
ですので、訓練方法として思考を止めるというのはその奥にある深い意識を目覚めさせるために有効なわけです。
ですので、よく聞くサマーディへの批判である「サマーディで思考を止めても悟りには至らない」みたいなお話はそれはそうなのですけど、瞑想においてサマーディは必ず通る道なわけです。
ヨーガでいうサマーディは深い意識が目覚めてきた状態なのですけど特に仏教ではサマーディは思考を止めるだけを意味するという言葉の意味の違いがあります。
コンテキストに合わせて解釈しないと相手の言っていることを誤解してしまいます。
ヨーガ的にはサマーディは最上でサマーディの中にはいくつもの種類があって、それでも基本は深い意識が出てくるというところを根拠にしています。
仏教的にはサマーディは思考を止めるだけのお話でその先に観察状態であるヴィパッサナーがあります。
ですけど、ヨーガ的なサマーディを仏教がヴィパッサナーと呼んでいるだけで実際には同じことだと思うのです。
このことを踏まえておらずに「ヴィパッサナーはサマーディよりも上だ」みたいに言う方がいらっしゃいますけど、それは仏教の視点のお話であって、ヨーガの言い方は違うのですよね。
特にスピリチュアル初心者は自分のやっている修行などを最上で特別だと勘違いしてしまいがちですけど、本質を見ればどれも大差ないことが多いです。
どちらにせよ最初は思考を停止して深い意識を目覚めさせると言う点に関しては一緒ですし、深い意識が目覚めたら思考を動かしても深い意識が同時並行に動くようになります。最初こそ思考を止めないと深い意識が出てこないですけど慣れれば深い意識と浅い顕在意識が独立あるいは強調して動くようになります。
ですから、仏教やヴィパッサナーやヨーガの間で喧嘩なんてしてもしょうがないわけですね。
私なんかからすれば、宗派を1つに絞る必要性すら感じません。他の修行法をせずに自分のところだけするように言う流派も多いですけど、そんなことより多くのいいところを組み合わせて成長していけばいいと思うのですけどねえ。
その辺りの囲い込みって、精神修行が根拠になっているのではなくて現実的にスタッフを確保しないと運営していけないとかコストがかかるとか会費を集めたいとか、そう言う理由だと思うのですけどね。であれば、そんなことにあまり関わる必要もないと思うのです。
師匠という意味であれば別ですけどね。深い関係を築くためには定期的に通うべきです。ですが、宗派にそれほどこだわる必要はないと思うのです。