静寂の意識に達した後、その意識を保ったまま生活ができるようになります。生活するうちにその状態から落ちてしまったり意識がぼんやりとしてきてしまうことがありますが、そのようなぼやけた状態から清浄な意識へと戻してあげるのが瞑想だとも言えます。
ですから、清浄な意識を保てるのであれば瞑想をわざわざする必要がないとも言えます。そうは言いましても普通は瞑想をすると何某かの変化が訪れますので瞑想は有益です。
この覚醒した清浄な意識は一般的には「サマーディ(三昧)」とも呼ばれていますが、ある種、スローモーションのような感覚を伴う心そのものが世界を認識している状態です。
いわゆる一般的な意識においては心はぼやけていて心そのものが世界をそれほどはっきりと認識できずにいます。ぼやけた心の状態ですと想像や外部の刺激に反応して日常生活を送ることになりますが、心がはっきりして心そのもの、ゾクチェンでいうところのリクパが動き出すことによりサマーディの状態になります。
そのサマーディの覚醒した意識の状態を保って生活することこそがやがていわゆる「悟り」に通じる道なのだと思います。
ゾクチェンでチェルドル、あるいはシャルドルと呼ばれている状態において以下のようなことが起こります。
シャルドルは(中略)海に降りると同時に溶ける雪のイメージによって表現される。この場合、雪は感覚をつうじた対象との関係、すなわち煩悩を意味し、シャルドルは、「生じると同時に解放する」ことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
この種の「煩悩に左右されにくくなる」状態は様々に起こり、瞑想の各段階でそれぞれに起こりますので、初期のぼやけた少しだけ左右されない状態でも同様に言えなくもありませんし、このように「生じると同時」と言えるほどの素早い解放の段階もあります。
人によっては生まれてずっと「私は煩悩に左右されにくいし欲望も少ない」という方もいらっしゃいます。それは人それぞれですしその通りの場合もあるとは思いますが、その一方で、そのように心が想像あるいは自己の理屈でそのように思っているだけで実際はそうではない場合もあります。
実際のところ、このような「即時」の解放がどのようなものなのかはなってみないとわかりませんし、まだ先があるのかもしれません。それは私にしても同様のことです。まだ私が思っている状態は段階が低いのかもしれません。そんな感じで瞑想を続けています。