スローモーションのヴィパッサナー瞑想で生活する時間が増える

2020-08-15 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

日常生活が瞑想になってきましたが、最初は気がつかないうちに割とすぐに元の状態に戻っていました。瞑想状態が解除されると再度瞑想をして瞑想状態に持ち上げた後に日常生活をその瞑想状態で続ける、と言うことを繰り返していました。

最近は、半年前と比べてその瞑想状態の継続時間が増えたような気が致します。

以前は瞑想状態で生活するためにある程度の気付きの集中力が必要でした。例えば視界がスローモーションで認識される状態はある程度の「行為」としての集中が伴うものでした。一方、最近はその「集中」がさほど必要なくて集中自体も無意識のものに変わってきているように思います。これは「集中」というと語弊があるかもしれず、「観察」と言った方がいいかもしれません。

この、以前の状態である「集中」についてもう少し書きますと、まず、ヴィパッサナーで見ているのは顕在意識ではなくその奥にある潜在意識ですので、その潜在意識が集中すると言うと違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、あくまでもその潜在意識が活動するための集中が昔は必要でした。このあたり、誤解がないようにもう少し説明しておきますと、普通に言われる「集中」とは顕在意識における「行為」であり、五感にまつわる集中です。五感ですから体を動かすとか目で見るとか言う「行動」に即したものを普通は「集中」と言うと思います。しかしながら、ここで言う「集中」とはそのような五感にまつわる集中ではなくその奥にある顕在意識を働かせ続けると言う意味における「集中」であるわけです。この世界を見ているのは普通は五感における目であるわけですが、ここで言う「見る」とか「気付き」とか言うのは、境目が曖昧ですしもちろん五感も動いているわけですから五感としての「見る」や「気付き」も当然あるのですが、それに加えてその奥にある潜在意識としての「見る」が働いている状態のことを言うのです。その潜在意識としての「見る」を動かし続けるために「集中」が必要なのですが、それは奥深いところに意識を「合わせる」「意識を凝縮させる」と言った種類のものですので、五感で筋肉などを集中させることではないわけです。これを、流派によっては「行動ではない」と言ったりすると思いますし、「集中ではない」「観察だ」とか言ったりすると思いますが、どれも状態としては同じことを言っているのではないかと思います。この状態を「集中」と言うこともできますし「集中ではない」と言うこともできますし「観察だ」と言うこともできますけど、別にどう表現しても良いのではないかと私なんかは思います。流派によってはこれを「ヴィパッサナー(観察)」と呼びますし、「サマーディ(三昧)」と呼ぶ流派もあります。サマーディと言う言葉の解釈は多様ですのでこれまた混乱します。と、言うことで、言葉としては色々ありますけど、いわゆる潜在意識が見ている状態が続くのがいわゆる「瞑想で生活する」と言う状態なのではないかと思います。

そのような「瞑想で生活する」という状態を続けるためにある種の、潜在意識に対する「集中」が以前は必要だったのですが、最近はそれほど必要でなくなってきたということです。潜在意識に対するものですので「集中」というよりは「観察」と言った方がいいかもしれませんが、どちらの言葉も必ずしも全てを表現できていないような気が致します。「集中」「観察」どちらの要素もあります。

「集中の感覚が消えてゆく」とは「観察状態になる」ということであると言えます。「集中」がより「行為」に近いものだとしたら「行為」としての感覚が減っていった、と言えなくもありません。このように「集中」という「行為」の感覚が消えるとどうなるのでしょうか。それは行為ではありませんので「習慣」「風習」に近いものになると思います。

余談ながら、日本の昔ながらの習慣ですと、この状態のことを「日々、周りのものに感謝しましょう」とか「食べる時に箸を動かしたり食べ物を感じて頂きましょう」みたいな言い方になるのかと思います。そう思うと、日本の昔の人って実は瞑想状態が当たり前で生活していたのかもしれないと思わされます。今の人は瞑想状態から落ちてしまっていますのでこのことが理解できないのでしょう。これらの日本の習慣は習慣というよりも瞑想状態で生活していたら勝手にそのようになると言う自動的なものではないかと思うのです。それが瞑想状態を忘れてしまって習慣だけが残ってしまい、しばらくはその習慣が続いたもののやがては忘れられてしまうかもしれない時代になってきているような気も致します。であれば習慣を取り戻すと言うよりは瞑想状態を取り戻せば日本の習慣も自動的に戻るとも言えると思います。日本の文化を取り戻すとか言っている方がぼちぼちいらっしゃいますけど、文化を取り戻すと言うよりも瞑想状態を取り戻す方が早道な気も致します。この日本の風習であっても、瞑想的な感覚なしに生まれながらに習慣としてただ継続的に行っていることと、瞑想的な感覚を伴って行っているのとでは大きく違うのだと思います。ある種の、超えにくい大きな壁というものが存在するわけですね。おそらくは日本の昔ながらの人は「日々、周りのものに感謝しさえすればいい」とか言いますし、それは「既に到達した人」のお話であって、まだ到達していない人はヨガやら瞑想やらをしてそこにまず到達する必要があるのかなと思います。感謝しさえすればいいのはそうなのかもしれないですけど「まだ到達していない人」にはおそらくそれだけだと難しくて、他のものが必要になってくるのかなと思います。

余談はさておき、ここまで書いてみて改めて気がついたのは「意識の集中」が不要になってくるという表現もまた語弊があるような気がしてまいりました。集中しなくなるわけではなく、観察は変わらず続くので、集中が観察に変わったというのもまた正しい表現ではない気もしてまいりました。であれば、以下のような表現はいかがでしょう。

「集中と共に観察をすることで日常生活がスローモーションとして認識できるようになり、それは瞑想しながら生活するということに繋がっていました。昔は集中と観察をする際に『力』が多少入っており、その力が集中と観察を維持しておりましたので時間が経つと力が抜けると共に集中と観察が弱まってゆき、そうすると再度座って瞑想をしてスローモーションの状態に戻す、ということを繰り返していました。今は、その『力』が次第に不要になってきており、『力』を入れなくてもスローモーションの瞑想の生活が長く続くようになりました。」

このように表現すると、より現状に近いような気が致します。ただ、力と言ってもエネルギー的にはそれほど変わりがありませんので、エネルギーという意味での力は変化がなく、ここでいう力とは「余分な力」とでもいうべきもので、いわば「余分な力が抜けた」とでもいうべき変化であります。

とりあえずこのことを「ヴィパッサナー瞑想」と言ったりしますけど、世間で言われている「流派」「手法」としてのヴィパッサナー瞑想が優れているとかそういうことではありません。ヨガ瞑想をしていてもヴィパッサナー瞑想をしていても同様の状態にたどり着くと思います。ただ単に表現としてそれを選んでいるだけのことです。流派の良し悪しを述べているわけではありません。同様の状態をヨガ風にサマーディと言っても良いです。表現としては色々あると思います。同じことです。どちらも手垢のついた表現ですけど、とりあえず表現するにはそのようになるというだけのお話です。