目を開けていても平穏な瞑想状態が続く境地(同テーマ&時系列の前記事)

雑念が生じると同時に解放して涅槃に近づくシャルドル

2020-09-15
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

先日の続きです。平穏な意識状態、いわゆる涅槃とでも言える状態はおそらくはゾクチェンでいうところのシャルドルに相当するような気が致します。涅槃という言葉の意味は幅広いように思われますのでシャルドルだけでなくその次の段階であるランドルも該当するように思われますが、いわゆる涅槃に達したと言われるような、境地あるいは入り口に達したという意味合いにおいてはおそらくシャルドルが適切かと思われます。

これは、サマーディを続けるうちに育ってくる3つの能力のうちの1つです。

1.チェルドル
2.シャルドル →これ
3.ランドル

シャルドルの定義は以下のようなものです。

シャルドルは「生じると同時に解放する」ことを意味している。すなわち、いかなる種類の感受が生じても、それはみずからを解放する。知恵を保とうとする努力すら不要だ。(中略)煩悩によって制約されることはなくなる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

最初のチェルドルの段階では雑念は段階的になくなり、瞑想することで平穏な状態に達しました。今は、特に瞑想中、特に努力しなくても自ら雑念がすぐに解放され、強い太陽の光に照らされた水滴のようにすぐに蒸発してしまうように思います。そしてそれは、明示的な座った瞑想が終わってもしばらく続くのです。

この状態はもちろん行ったり来たりしておりますので多少状態が戻ったり進んだりということがあります。しかしながら、平均すると割とシャルドルの状態が多くなってきたような気が致します。

ゾクチェンでは、この状態を以下のように説明しています。

ゾクチェンにおいては、あらゆる煩悩や、カルマから生じるあらわれも、ただの飾りになると言われるのはこのためである。執着することなく、単にあるがままのものとして、すなわち自分のエネルギーのたわむれとして、それを楽しむのである。密教の守護尊の中には、克服された五つの煩悩を象徴する、頭蓋骨できた王冠を、装飾として身にまとっているものがある。その王冠は、このことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

最初の段階のチェルドルではまだ自分の努力が必要で、であれば、まだ五感の煩悩は装飾品とまではみなせていなかったような気が致します。チェルドルではまだ五感の煩悩が自分自身と幾分かは一体化しており、それを引き離すためにある程度の瞑想が必要でした。そのことが段階的にやってくる平穏状態として認識されていたのかなと思います。

そうは言いましてもこの種の煩悩・雑念からの分離はヨーガスートラ的にはプラティヤハーラとして識別されており、かなり初期の段階から意識されていることではあります。初期の基本であるからこそ初めのうちから意識され、ここにきてようやくほぼ完成に至るということかなと思います。

・プラティヤハーラ 雑念からの分離を試み始める。1〜2割
・サマーディのチェルドル 雑念からの分離の最終段階の始まり。7〜8割
・サマーディのシャルドル 雑念からの分離の最終段階がほぼ終わる。9割。ここ以降が涅槃

そして、次の段階であるランドルに達するとその分離が更に進むように思います。

このチェルドルにせよシャルドルにせよ、ヨーガスートラではきちんと説明されていません。サマーディ以上になるとヨーガスートラでは説明不足で、ゾクチェンや原始仏教をあたらないときちんと自分の状態を把握できないような気が致します。



目を開けていても平穏な瞑想状態が続く境地(同テーマ&時系列の前記事)