静寂の境地に達する前は人生がつまらないゲームのように感じることも往々にしてあり、いつリセットしてもいい気持ちになることが時々ありました。
クンダリーニが動き出してマニプラ優勢になってポジティブになり、アナハタ優勢になってエネルギーの高まりを得たところで、次第に、人生がつまらないもの、取るに足らないものと感じることが増えました。それはきっと、煩悩の最後の抵抗だったように思います。
静寂の境地に達する前に、その煩悩の最後の抵抗として、人生ゲームをリセットしても全く問題ないというぼやっとした気持ち、人生ゲームに対して「飽きてしまった」「もう終わりでもいい(死んでも問題ない)」みたいな気持ちが、薄く浅く弱々しくふわふわっと常に心の奥底に存在していたように思います。
それは、クンダリーニ覚醒前のネガティブな重々しい気持ちとは全く異なり、ある程度の覚醒をしたからこそ現れる、煩悩のはかなさやつまらなさを反映してこの世に未練がなくなっていつ死んでも問題なくて人生がゲームのようなものだとしたらそのつまらないゲームをいつリセットしても問題ない、という淡い気持ちが常に存在していたように思います。
この気持ちはいつまで続くのだろうかと気にもなっていて、気にもなっていたからこそ死なずに今まで生きてきたという面もあります。もはや人生ゲームに興味を失っていて、もう死んでもいいといえばいいのですがその気持ちの根源が知りたいという奥底に眠っている一段深い欲求があったからこそ人生ゲームを継続させてきたといえます。
そして、多少ながら静寂の境地を垣間見たことでわかったのが、そのような気持ちは静寂の境地に達していないからこそ現れていたもので、そのような気持ちすらも煩悩の1つの面だったのだ、ということです。
クンダリーニを覚醒させた覚者とも思えるような人がたまに自殺してしまうことがあり、それは一体どうしてだろうと疑問に思っておりました。それはその人それぞれの事情があるでしょうしそれぞれ異なりますので全てがそうだとは言えないのですが、このように静寂の境地に達する前の最後の煩悩の抵抗として「自殺」という選択肢もあり得るのではないかと思いました。それは静寂の境地に達していないからこそ起こしてしまった「間違い」「勘違い」であり、言いようによっては「魔」とも「魔境」ともいえる段階なのではないかと思います。
おそらくは静寂の境地まで到達してしまえばもはやそのようなネガティブな巧妙な煩悩の抵抗に屈することはなくて、これからもこの世に生きてゆくのだという確信を得るのですが、中途半端に覚醒してしまってまだ静寂の境地に届かない人は「魔」に巧妙に誘われて「もういいや」とか思って自殺とかしてしまうのかもしれません。
しかし、ようやく静寂の境地を垣間見て雑念がありありと自動的に現れては消えてゆくさまを観察できるようになると、ネガティブな巧妙な煩悩の罠も見抜けるようになるものです。そうしたらもはや自殺とかいう選択肢はなく、この世もあの世も一続きのものとして見ることができますから、自殺とかする必要もなくて自殺なんてあり得なくなるわけです。だって、あの世もこの世も同じですからね。死んで何かが変わるものでもありません。
静寂の境地の少し前から生に対する執着がかなり消えていますから、その状態で静寂の境地にまだ達していないと「もう生きなくてもいいかな」みたいな煩悩あるいは魔からの巧妙な誘惑が出てきて、せっかく途中まで覚醒したのにいいところで失敗してしまうようなことになるわけです。そのような落とし穴もありますから、静寂の境地に達すればある程度は自身で好きに生きられますが、静寂の境地に達する前は信頼できる師匠につかないと落とし穴にハマりやすくて危険な気が致します。思うに、覚者と思われる方で自殺してしまった方は割と一人で修行されている方が多いような気が致します。しっかりと静寂の境地に達していて導いてくれる師匠がいないとおそらくはそのように間違った方向に行ってしまうような気も致します。人生はその人の好きに生きればいいとは思いますけど、この落とし穴は巧妙で、失敗して落ちてしまうと人生をまたやり直ししなくてはならなくなってもったいないと思うのですよ。まあ、そうして失敗から学んで、次の人生は失敗しないように再計画する人もいるのですね。人生いろいろです。
[2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。