オーラの状態は一時的なもので絶対的なものではありませんけど、ある程度の判断材料になります。オーラと判断の関係は、私の中で時系列的に以下のように変化してきました。
1.オーラ絶対説。20年前のニューエイジ時代に、当時はオーラがその人のスピリチュアルな成長度合いを示す指標として絶対視されていたように思います。私も少なからず「そんなものかな」と思っておりました。
2.オーラ相対説。10年前から現在に至る。オーラは一時的な状態で絶対的な状態ではない。多少の判断基準にはなるがそれに左右されることはない。
3.オーラ瞬間説。(いまここ)
オーラの状態を論理より重視するかどうかは時によって変わってきますけど、昔は周囲も自分もオーラの状態で人を判断したりされたり、と言った風潮だったように思います。
今もその風潮はある程度は続いているように思いますが、それに加えて、オーラの状態とは一時的なもので、ゴールドや青や緑の波動(オーラ)を持つ人であっても一時的に赤いオーラを持つことはある、と理解されています。
ニューエイジ時代はオーラが絶対視されていてオーラが美しくなければスピリチュアリストにあらず、という風潮だったように思います。一方で、今は多彩なオーラが存在することが理解されています。
20年前は、他人と自分を比べて優越感を感じたりマウンティングするための道具としてオーラのカラーが利用されていたような風潮があるようにずっと感じておりました。であればそれはレベルが低いお話で、であれば、その次の段階であるオーラ相対説が広まってきたのは良い風潮であるように思います。
それら2つの面はどちらもある程度は真実で、そのような面もあるかと思います。
波動の高い人は平均すればそれなりに高いオーラを保っていますし、逆もまたしかりです。そのような高い波動を持っている人でも一時的に真っ赤のドス黒いオーラを持つこともあります。そんなものです。一時的に黒いオーラを持ってもその人の本質は清浄ですのでオーラを浄化することは時間をかければ可能です。
最近の理解では、それに加えて、オーラはその「瞬間」が重要だと思うようになりました。
人のオーラは時によって変化します。瞬間・瞬間、その人のオーラは変化します。言葉の理屈で相手を説得させようとしても、オーラは正直です。言葉を発したときのオーラが言葉と一致していなければそれは何か嘘をついているか何かを隠しているわけです。
・・・こう書くと、まあ、ごく当たり前のことを言っていると思われるかもしれません。嘘は見抜ける人には簡単に見抜けますし、騙される人は何度も何度も騙され続けます。嘘を見抜く人は論理で見抜く人もいますけど、もっと簡単なのは、相手のオーラの変化を見ることです。見る、と言っていますけど視覚で見るわけではなくてオーラの変化を感じる、ということです。見る、と言っているのは歴史的にそう言っている人が多いのでスピリチュアルな文化によるものです。スピリチュアルでオーラを見る、という時は「感じる」と置き換えると言葉的には正しいです。
論理とオーラが相対した時、どちらが正しいのかと言えばオーラが正しいです。相手の論理を頭で考えても論理は大抵は間違っています。
これは、実際、いろいろなところでずっと昔からいろいろな人が言っていることです。この単純な事実が何度も何度も多くの人が言っているということは、これが正しいことを示しています。
しかし、頭は論理で抵抗します。「いや、これが正しいはずだ」と、論理は抵抗します。相手の理屈に加えて自分の頭が論理で抵抗してそれが正しいと思ってしまえば一旦はそれを受け入れてしまい、変な判断をしてしまうことになります。そして後で、「ああ、やっぱり直感が正しかったのだ」と後悔するわけです。
瞑想を続けてゆくと、このような論理と「感覚」の分離ができてきます。どの感覚がオーラのもので、どこからが論理によるものなのか明確に判断できるようになってきます。それは程度問題ではありますが、上記のようなことが、事が起こってしまった後ではなく、判断する前に自分の奥深いところで相手のオーラを感じて相手の言っていることがわかり、それと同時に、自分の頭で論理的に判断してその内容を理解することができるのです。
瞑想をしていない人の場合は往々にして、これらがごっちゃになっています。感覚で判断したものと論理的に判断したものが判別つかなかったり、あるいは、感覚だけで生きていたり、論理だけで生きていたりします。実際は、どちらも有益なものです。直感がオーラを感じてまず大体は正しいことがわかり、細かなところは論理を使って詰めてゆけば良いわけです。使い分けが必要ということですね。
直感は細かなことはわからないことが多いですから、直感は相手のオーラを感じて方向性を確かめることに使って、論理は細かいところを詰めるわけです。それらは本来、協調して動くもので対立するものではないのですが、瞑想をしていないとこれらが対立するものになってしまいます。
現代の人は往々にして論理が優勢ですから、むしろ、オーラの感覚こそ重視すべきだと私なんかは思いますけどね。特に誰かと話をするときはオーラの感覚でその正しさがある程度は判別できると思います。それに頼りすぎてしまうと間違ってしまうこともあります。というのは、相手が勘違いをしていて勘違いしたままの条件においては正しいということもあるからです。しかしながら、論理で「確かめ」をする限りにおいてはオーラの感覚をまず優先して判断して良いと思うわけです。