瞑想での心の停止とプラティヤハーラとサマーディ

2020-10-15
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ヨーガ・スートラでは「心の死滅(停止)」が一つの目的地になっています。

この解釈は、プラティヤハーラの段階の人とサマーディの段階の人とで異なる場合があります。

プラティヤハーラの段階の人は「瞑想で心を停止(死滅)しても一時的なことなので本質ではない」と言って集中瞑想や心の停止を否定しがちです。

それはプラティヤハーラの段階の人であればある程度は真実ですけど、サマーディに至ってしまえば心の停止の静寂の境地とそれの奥に存在している深い静かな意思の働きが共存しますので、心の死滅はある意味正しいわけです。

確かに心の停止は本質ではないですが、本質ではないという説明を聞いたときにプラティヤハーラの段階の人は心の死滅(停止)を否定してしまうのに対し、サマーディの段階の人は心の死滅(停止)は真実として受け入れてその奥にある深い意識の働きもまた肯定するわけです。プラティヤハーラの人にとっての「本質ではない」という意味と、サマーディ段階の人にとっての「本質ではない」という意味が異なる場合があるということです。

ヨーガ・スートラに述べられている心の停止(死滅)を否定するのはプラティヤハーラの段階の人が陥る可能性のある誤解の1つです。プラティヤハーラの段階ですと瞑想中に一生懸命雑念から逃れようと集中して努力しますが瞑想が終わるとまた雑念がわらわらと湧き出てきて翻弄されてしまいます。ですから、心の死滅をしても何にもならない、とプラティヤハーラの段階の人は判断してしまうことがありますが、それはまだ瞑想が進んでいないだけのお話です。プラティヤハーラの段階だと、心の奥にもう1つの本当の心の本性が眠っていることがなかなか理解できないわけです。きちんと説明してくれる人がいない限り、誤解してしまっても無理はないかもしれません。そうして誤解してしまうと「心の死滅なんてしてもしょうがない」と解釈してしまうのです。

一方、サマーディであれば心の死滅がある程度は続きますし、心が動き出したとしても心の奥底にある心の本性としての意思は表面的な心の動きに左右されずに存在して働き続けますので、雑念によって心の本性が妨げられることは少なくなります。雑念は程度問題ですのである程度は雑念によって心の本性の動きが妨げられますけど本質的に別々なものであることが実感としてわかりますから、そうして表面的な心・思考・意思と、奥底にある心の本性としての意思が異なるものであることがわかってしまば先のようなお話が誤解だということが分かるわけです。

プラティヤハーラの段階の人はたまに誤解をして心の死滅(停止)とは全く別のところに悟りの道を求めてしまうことがあるのに対し、サマーディの人はまさに心の死滅(停止)と悟りとしての心の本性・意思とが共存する状態で生きているわけです。

このように、プラティヤハーラの段階の人が時々陥る誤解として、心の死滅(停止)のお話について「集中は本質ではない」と言われた時に「集中を否定してしまう」ことがあります。そうではない人も多いですけど、誤解している方もボチボチいらっしゃるように思われます。

サマーディの状態は心が動いているか動いていないかに関わらず心の本性が奥底で動いている状態ですから、心が死滅しているかどうかは本質ではないと言えばそうですけど、それでも以前に比べたら遥かに心が鎮まっている状態ですので、死滅が本質ではないのはそうであるにしても、心が静寂になったことで現れてくる奥にある心の境地があるわけです。

その奥にある境地が重要というのはその通りなんですけど、そのためにはまず集中瞑想で心を一時的に死滅(停止)できるくらいまで集中力を高める必要があるわけです。

■行動か、理解か
一部の流派では「行動ではなく、理解によって解脱できる」とか説明されていますけど、それを言葉通り解釈してしまうと「瞑想しなくても良い。修行しなくても良い。理解するだけで良い」となってしまいますが、その流派の中にいる方でもそのように説明している方もおられますけど、そこは自由な立場の私ですから、そのような説明もこれと同様に解釈して「(顕在意識における心・意思による)行動ではなく、(潜在意識の働きによる心の本性、アートマンによる行動、それを比喩的に言い換えるならば理解、という意味においての)理解によって解脱できる(モークシャ)」と読み替えることができるわけです。最終目的地にあるのがいわゆる「行動」ではなくても、そこに至るために行動は必要だと私なんかは思うわけです。それを、文字通り解釈してしまって「行動しなくてもよくて理解しさえすれば解脱できる」と思ってしまうのは、「念仏唱えれば成仏できる?(そんなわけないでしょ)」、みたいなお話と同一になってしまう危惧もあるわけです。最終目的地が顕在意識の行動から離れたアートマンによる行動、それは顕在意識からしたら潜在意識に見えるかもしれませんし理解として解釈されるかもしれませんけど、単なる固定的な理解ではなくて深いところにある働きとしての動きのある意思が働き出すわけですので、実際は理解という言葉は適切ではなくて、それは「アートマンがまだ現れていなくて、しかしながら真実を理解した人による解釈」ではないかと思うのです。

実際にアートマンが現れて働き始めたならば「理解」という言葉は使わないと思うのですけどね。おそらくは、真実を勉強することで理解に至ったがまだアートマンが現れていない人によって解釈された流派の教義なのではないかなと思います。そのあたりがプラティヤハーラ段階ですと「理解」と解釈されるのに対して、サマーディですと「心の本性(アートマン)の働き」として理解されるのかな、と思います。