インナーチャイルドの正体は慈悲の心だった

2020-10-29
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

朝の瞑想をして静寂の境地に至る少し手前で、ふと、インナーチャイルドの姿が見えました。そのインナーチャイルドはうずくまって、足を抱えるようにしてしゃがんでいました。

なんだろう・・・ と思っていたら、それは、慈悲の気持ちだということにふと気がつきました。気がついて、インナーチャイルドが立ち上がった瞬間から、今まで抑圧されていた慈悲の気持ちが少し蘇ってきました。

思えば、私の今世の目的が2つあったわけですが、そのために自分をどん底に落とす必要があったわけで、まず家庭環境が悪く、更にはコミュニティも最悪でした。

家庭環境はというと、父親と兄が他人を馬鹿にして喜ぶタイプで、私や他人が病気とか怪我をするとゲラゲラ笑って蔑むタイプでした。同級生にしても同様で、私は虐められる方で、ことあるごとに、些細なことでゲラゲラ笑われていました。とにかく毎日、ムカムカムカムカしていて、最初はムカムカしているだけでしたが、やがて、反抗をするうちに自分も相手を馬鹿にするような気質がいつの間にかついてしまったような気が致します。まあ、そのような低俗な環境で一般人の気持ちを学ぶということが今世での学びの1つだったわけで、それはうまく言ったとも言えます。

思えば、低俗な一般人に混ざって生まれるのは江戸時代以降のことで、それまでは貴族とか王族とかしか生まれたことがありませんでしたので、一般社会はどこか「怖い」ところでした。グループソウルの過去生には天皇だったりローマ皇帝だったこともあったように思います。

品のない方々が大勢いる一般社会に混ざるなんてのはそれまであり得なかったわけですが、中国の皇帝の時にうまくいかなくて一般人の反乱によって殺された時にもっと一般人を学ぶ必要があると思って、一般人に混ざって暮らすことで一般人を学ぼうと思ったわけですね。中国の皇帝だった頃、他の国を治めている人が一般人の気持ちもよく分かった上で統治をしていて、そのように一般人の気持ちがわかる人になりたいと思ったんですよね。最初に一般人として生まれたのは江戸時代の下級武士だったわけですが、その後は、近代になってビジネスマンとして生活をしていたりしましたが、今回の人生ほど下級な環境に身を置くことはなかったように思います。

一般人を理解するために一般人に混ざるとは言ってもある程度の秩序が保たれた環境に住むことがほとんどであり、今世のような厳しい環境、貧乏でひねくれていて周囲の人々もすぐに暴力を振るうようなコミュニティに生まれることは初めてだったように思います。

このような低俗な環境で生まれる前は、他人を馬鹿にする人の気持ちがわからず、「どうしてこの人は他人を馬鹿にしたりするのだろう」「どうして他人の失敗を笑う人がこの世に存在するのだろう」「どうしてこの人は他人の足を引っ張ったりするのだろう」「どうしてこの人は自分の孫が可愛くなくて馬鹿にしたりするのだろう」とか、様々な疑問があったわけです。もちろん基本としては自分自身のカルマの解消と悟りへの階梯を確かめることだったわけですが、カルマにもいろいろなものがあって、このような低俗な疑問を解消することも含まれていたというわけです。今まで避けていた低俗な環境こそがその目的を果たす上で絶好の機会を与えてくれました。これは私にとって必要なものだったわけです。

そのような低俗な環境に身を置いてどん底に自分を突き落とすことが目的だったわけですが、その過程において、「慈悲の心」が抑圧されていたわけですね。それが、インナーチャイルドの正体だったわけです。

分かってしまえば納得です。これは私の場合であって、他人が同じかどうかはわかりませんけど、少なくとも私は自分のことがわかって凄く納得しました。インナーチャイルドが抑圧されているのは、慈悲の心が抑圧されているということ、そのものだったわけです。

実際、私が生まれてから若い頃を過ごして以来、ことあるごとに自分自身の気質がどうにかならないものかと思ってきました。

上記のような低俗な環境に生まれて、いつしか慈悲の心を忘れて、他人が不幸にあうといつしか「ざまあみろ」と思うようになってしまいました。それは悲惨な子供時代における父親や兄およびコミュニティからのいじめや些細なことで他人を馬鹿にする人たちが主な原因だったわけですが、高校を終えて東京に出て、低俗な家族および低俗なコミュニティを出てからはそのような悪影響も減り、自分自身の気質を直そうと思いました。

そうして気質を改善して行こうと思っていたわけですが、骨の奥に染み込んだ気質はどうにもなかなか治りません。

それがここにきて、ようやくインナーチャイルドとして慈悲の気持ちが少し回復してきたわけです。

これは、愛とか喜びと言ったものとは異なる感情です。クンダリーニ覚醒でマニプラ優勢になった時は喜びとポジティブさが向上しましたが、慈悲の心は変化がありませんでした。アナハタ優勢になった時に更にポジティブになりましたが、慈悲の心はこれまた変化ありませんでした。意識の平穏、静寂の境地に達した時も、それは慈悲の心とは関係がありませんでした。

他人を馬鹿にする気質はかなりなくなったわけですがほんの少しはまだ残っており、それと入れ替わりになるような慈悲の気持ちはまだ現れてきていなかったように思います。

それがここに来て、ようやく慈悲の気持ちが少しだけ出てきて、その慈悲の気持ちの体現であるインナーチャイルドが弱々しくも立ち上がって、足取りはまだ頼りないものの自分の足で立っているのが瞑想中に見えました。

ことあるごとに、自分の慈悲の気持ちが出ていないことに対して「どうしてだろう」という気持ちと、慈悲の気持ちはどこに行ってしまったのだろう? どうにかしたい、という疑問と課題があったのですが、ようやくその答えが見えた気が致します。そういうことだったのですね。

インナーチャイルドが立ち上がり、慈悲の気持ちが少しだけ回復してきたところで、ふと、今朝の静寂の境地に至りました。朝起きてすぐは静寂の境地ではなくちょっとモヤモヤしていて、瞑想をすることで静寂の境地に至るわけですが、その静寂の境地のちょっと手前でこのインナーチャイルドの体験をしました。

まだ慈悲の気持ちは弱いですが、ひとまず、慈悲の気持ちが目覚めたことを大切にしたいです。