答えは全て自分の中にあるのですから、自分に対しては厳密でいて、外に対しては大らかでいれば良いわけです。
比喩的に言えば、自分に対してはB型、外に対してはO型でいればいいのです。
聖典を読んだりする場合でも同様で、聖典とは言えども外のものですからO型の大雑把な態度が真理の探求には役立つと思います。このあたりは流派によって諸説あって、聖典はきちんと理解しないといけないと言う流派もありますのでそのような教えに従っているのであればそれは個人の勝手ですから好きにすればいいのですが、私からしてみたらそれすらも外のものでありますので大雑把な態度で良いと考えています。
あくまでも答えは自分の中にあって、外にあるものはその次であり、聖典の場合は「確かめ」のために使えますけど、聖典であろうと外のものであると思うわけです。
聖典の内容を自分の内に見出そうとする、と言うのはありです。それは最初のきっかけは外であろうとも答えは自らの内にあると言うことですから、そう言うのもありだと思います。そのために聖典を書き写したりして内容を自分の中に染み込ませるのも良いと思います。流派によっては書く瞑想だとか言ったりもしますし、経典を書写したりするのもこの範疇に入ると思います。その場合にしても、答えは自分の中にあるわけで、外にある経典はそのきっかけに過ぎないわけですね。
であれば、聖典は大切なものでありますけどそれでも外のものですから、外のものであればわからないものはわからないという大らかな態度で経典には接するべきだと個人的には思っていて、理屈で理解したものは外の理解でしかなくて、自分で体験するまではそれはまだ外の知識でしかないわけですよね。
自分の中の感覚を大切にして、外のものである経典に対しては「そうかもしれない」という大らかな態度でいるのが良いと思うわけです。
経典はいろいろなことが書いてありますし、「体験」は人によって違いますから、部分的には参考にできても全部の体験が自分に起きるわけではありません。真理のお話なんてそんなものです。しかしながら大きな流れとしては大体は一致しているわけで、聖典に書かれてあることの全てが自分に同じように起きることはなく、だいたいの流れは一致しているだけですので、あくまでも自分の中の感覚を大切にして、外のものである聖典はあくまでも参考程度にしかならないわけですよね。
聖典を大切にすることはそれはもちろんで、聖典を蔑ろにするわけではありませんけど、あくまでも自分の中に答えがあるのですから自分の中が第一であって、外のものである聖典は確かめのための道具にしか過ぎないわけです。
聖典だけでなくグルの言葉も同様で、外の言葉であればそれほど気にする必要はなく、自分の中に答えを求める中での導きとしてのグルや聖典が存在するわけです。