キリスト教が悪魔や地獄で人々を恐れさせる理由

2020-11-21
トピックスピリチュアル

本当のことかはさておき、瞑想や夢で見たお話を記載しておきます。

私のグループソウルの一部は大航海時代のヴェネチアでかつて大司教をしておりました。

以前にも少し書いたのですが、教会は、ただ神だけを説くべきだったというのはそれはそれでありますけど、元々のお話を言えば恐怖で支配することが目的だったわけではなく、腐敗した人々および自我や自尊心が拡大してしまった当時のヴェネチアの人々に対して謙虚な気持ちを取り戻すように神の怒りとしての悪魔、あるいは、自我の悪い面としての悪魔を説いたのが最初だったように思います。拡大してしまった悪い自尊心が、その恐怖によって押さえつけられて謙虚になることを期待したわけです。

私のグループソウルが教壇に立って悪魔を説いた時、人々の反応としては恐怖が最初に来ました。一部の人はそれを理解しましたが、基本的には、そのお話はあまりうまく伝わらず、一部に根強い反感を生じさせてしまったように思います。

最初は、悪魔や地獄を説きました。当時のヴェネチアは世界中から富を集めており、豪華な生活をし、ものは溢れており、性的な欲望から物質的な欲望、および他人を操る欲望まで、ありとあらゆることを叶えたヴェネチアの人々はこの世の春を謳歌しておりました。

そのように腐敗して謙虚な心を失いかけているかのように見えた人々に対し、大司教であった私のグループソウルの一部は、そんな現世的な欲望にうつつを抜かしていると地獄に落ちて悪魔に食い荒らされますよ、ということを説いたわけです。

それはそれで理に叶った説教だったと思うわけですが、その説教により、様々な意図しない結果を生み出しました。

もともとは、その悪魔および地獄に関する説教は他の地域では行われてはおらず、ヴェネチア独特のもの、もっと言えば、その大司教が独自で始めたものだったと言えます。そのように、わずか1人によって始められた地獄、悪魔の説教がその後、全世界でスタンダードになってしまったわけです。

私は専門家ではありませんけど、書物を調べてみると地獄や悪魔の説教というものはそれ以前からもされていましたけど、この時ほど強くそれを前面に押し出したことはキリスト教の歴史においてそれほどなかったように思います。確かに、人の心が荒めば地獄のような心境にもなりますし、悪魔のような存在も実際にいます。それは昔から変わらず教えられてきたことですが、地獄と悪魔を前面に出して恐怖で持って説教をするというやり方はこの時において再発明されて洗練されて強く地獄をアピールするようになったように思います。

いわば、もともとあった地獄と悪魔というものをこの頃から教会で強く主張するようになったわけです。

それは上に書きましたように、人々のエゴに対するアンチテーゼであり、自尊心が拡大して人の心を失いかけていたヴェネチアの人々に対してきつい説教を与えるという意味合いがあったように思います。

それ自体は多少はうまく働いたのですが、新しい試みですし、教会に対する反感も大きかったように思います。

今から思えば、以前にも書きましたように、教会は、ただ神だけを説くべきだったとは思いますが、当時は、それが正しいと判断しておりました。

と、言いますのも、ヴェネチアだけのお話しでしたらおそらくそのやり方が正しかったと今でも思うのですが、悪魔や地獄で恐怖させるというやり方がその弟子たちを通じて今や全世界に広まってしまったことが失敗だったと思うからです。地理的・歴史的にその時において正しいことが、習慣化されて別の環境に広まったことで間違いになるということはよくあることです。そのような意味において、全世界における元々の混乱の芽を作り出してしまった、という点において間違いだったと思っているわけです。

一応弁護しておきますと、ある程度はその試みはうまく行きました。

悪魔や地獄というものは自らの心の状態ですから、自尊心が拡大している状態あるいは混乱したり欲望に満ちている状態こそが地獄や悪魔であるわけです。真理というものは比喩によって言い表されますから、天国というのは心の清らかな状態であって、地獄や悪魔というものは自我(エゴ)のことであるわけです。自我を抑えるために悪魔や地獄を説いて恐怖を与えるということが、当時のヴェネチアの傲慢な人々に対して行われ、ある程度はうまく行ったように思います。

やり方は現代人には適しませんが、考え方としてはそれは今も変わらないわけです。

キリスト教が悪魔や地獄を説いているのは心の状態を示す比喩であり、悪魔のような心、地獄のような心境・環境にいるのをやめて天使・天国のような清らかな心になりましょう、と説いていたわけです。すごく簡単なことです。

しかし、聞く側としてはそれをどれだけ理解したのかは微妙なところで、多くは単に、キリスト教の大司教が人々に対して恐怖を与えている、と解釈されてしまったように思います。

欲望が人々の心に現れる時、それは悪魔がやってきているのだ、と説きます。悪魔に従っているとやがて自分も悪魔のようになり、地獄のような心境になり、死後も地獄の状態が続く、というのはそれは真実です。死んでしまったら肉体がありませんから死んだ時の心境がしばらくずっと続いてしまい、死んだ時に欲望まみれで不満だらけですと死後もかなりの長い間、そのような抑圧された心境で過ごすことになります。それは地獄と言って良いのではないでしょうか。

一方で、死ぬ時に晴れやかに死ねばその後も天国・天使のような心境で過ごすことができます。

言っていることはすごく簡単なことです。

しかし、それはあまり人々に理解されず、欲望まみれの生活を送っていたヴェネチアの人々は理解するどころか「恐怖で我々を支配しようとするキリスト教(カトリック)」という判断を下したわけです。

今となっては色々と反省点はあります。

特に、世界中に悪魔・地獄の恐怖を広めたということはカルマとなって今の私にも繋がっていて、根深くて今すぐの解決は無理で時間がかかるようですけど、グループソウルが解決しようとしている長期的な課題の1つであるようです。

ただ、悪影響もあれば良い面もあって、若い時に悪魔・地獄を教会で植え付けられたが故に自我が拡大せずに若い時期から謙虚に暮らすことができた、というレポートも多く上がっています。その場合、最初に恐怖を植え付けられたので悪魔・地獄がトラウマとして残ってしまいますけど、それがなかったことによって自我が拡大して自尊心や欲望にまみれた生活をするよりはずっと良く、トラウマがあることによって謙虚な生活を保てることができるというのは悪魔・地獄の良い面であると判断されています。悪魔・地獄のトラウマがあったからこそ謙虚な若い時代を過ごすことができたというわけです。

これは私が判断しているというよりは、グループソウルの総意として、悪い面もあれば良い面もある、という両面が理解されているということです。

最初から神を見出して謙虚に生活するのが一番いいわけですけど、それができずに、悪魔・地獄のトラウマがなければ謙虚になることができない人々が多くいるが故に悪魔・地獄のトラウマが有効に働いているわけです。もちろんそれが不要な方もいらっしゃいますけど、今の世の中では必要な方の方が多く、現時点では悪魔・地獄のトラウマは有効なものであると判断されています。それは永久に必要なものではありませんが、現時点の判断はこのようなものであるということです。理想的には悪魔・地獄のトラウマなどなくとも最初から神を見出して生きるべきですが、補助輪としてのトラウマであるわけです。

そして、ある程度の年齢まで育った時にそのトラウマが不要になった際にはトラウマを取り除くために何がしかのスピリチュアルを頼る、ということも多く行われているようです。

全体としては失敗だった悪魔・地獄の恐怖の説教であったとしても、一部ではこのように良い面が残されてうまく使われているようです。