その可能性が高いです。
自分がまだ達していないだけなのに「何にもならない」などと断言できるその自信がどこから来るのか知りませんが、実際に、そのようなことを言う人は瞑想教師のような立場であってもいるものです。
例えば「瞑想で集中しても何にもならない。観察が重要だ」とか言っている方がいます。
あるいは、たまにヴェーダンタとかをインドで勉強された方で「瞑想で集中しても何にもならない。知識が重要だ」とか言っている方もいらっしゃいますけど、これはヴェーダンタは経験を超えたところを目的としているために瞑想の体験は一時的なものだという理解に基づいておりますので私がここで言わんとしていることとはちょっと異なるのでひとまず置いておきます。
ヴェーダンタのお話を抜きにすれば、瞑想で一般的にある要素は集中と観察で、時に「集中しても何もならない」とか言っている方がいらっしゃいますけど、そのような方の場合は静寂の境地を知らないのだな、と私なんかは思います。
ご本人はこう言っても否定されるかもしれないですけどね... まあ、私なんかからすればそう見えます。
静寂の境地あるいはその一歩手前くらいに達しないと「観察」は出てこないので、静寂の境地を知らずして「観察」はあり得ないのです。
こう言うと、「いやいや、皮膚の観察とか、想念の観察とか、視界の観察とか、いろいろあるでしょ」とか言いますけど、それは、集中しているのであって、瞑想で言うところの観察状態ではないです。
まあ、そんな集中であっても流派によっては観察と呼んでいるかもしれないですし、それは自由にすればいいですけど、そうであったとしても集中を否定する必要はないわけです。
瞑想で言うところの集中と観察は全く別物です。
五感に属する瞑想は、例えば皮膚の観察だとか眉間への集中だとか皮膚の観察だとか視覚の観察だとか、そのような瞑想は、初心者であればやっていることは全部一緒です。初心者が自分のやっている瞑想を「集中だろうか、それとも観察だろうか」などと深く考える必要はないです。自分の流派が集中と呼んでいれば集中と言えばいいし、観察と呼んでいるなら観察と言えばいいだけのことです。初心者の瞑想でそんな違いが出るわけもないです。ですから、どこかでかじった知識を元に「集中しても何もならない」なんて言っている人は初心者である可能性が高いのです。
もっとはっきり言えば、静寂の境地を知らずして瞑想における深い意味での「観察」はあり得ず、それ以前の瞑想であればそれを集中と言おうと観察と言うと表現だけのお話であって大差ないわけです。
[2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。