「手放し」が心を浄化する方向であればそれは正しい

2020-12-17 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

聖典であるヨーガスートラでは、心を浄化することで魂(プルシャ)が対象をありのまま写すようになる、と言います。
スピリチュアルでは何やら色々な手放しがあるようですけど、そのように心を浄化することを「手放し」と言っているのであればそれは正しいです。
同様に、キリスト教とかで「キリストに許しをこう」ことが心を浄化する方向であればそれは正しいです。

ヨーガ的には集中して瞑想をして心を浄化するわけですけれど、流派によってやり方が違うわけです。

この種の浄化は1回で完成するものではなく、何年もしないといけなかったり、人によっては数十年かかったりします。まあ、割と普通の生活を送っている人であれば数十年かかっても達成せずに亡くなったりもしますし、世俗を離れればもっと早いかもしれません。どちらにせよ時間がかかるわけです。

どちらの方法にしても、十分に心が浄化されて魂が対象をありのままに鏡のように映し出す状態になるのが重要なわけで。

そのための手法や言い方には流派それぞれのものがありますけど、ゴールは割とここで同一であるように思います。心の浄化と魂、あるいは流派によっては心が映し出す、なんて言ったりもしますけど、魂あるいは心が対象をありのままに鏡のように映し出す清浄な状態が目的なわけです。

ヨーガだとそれをサマーディと呼んだりしますし、キリスト教の流派によっては「キリスト意識」とか言ったりするかもしれませんし、スピリチュアルでは覚醒とかあるいは「手放された状態」とか言ったりするかもしれません。言い方は色々ですよね。あとは「委ねる」みたいな表現もありますかね。

「手放し」にしても「祈り」にしても「集中瞑想」にしても「委ねる」にしても、中途半端では結果は出ませんよね。目的地を明確にしてしばらく続ければ結果として浄化が達成され、魂あるいは心が鏡のように対象をありのままに映し出すようになるわけです。

どちらにせよ、やり方は違えども、言い方がちょっと違うだけでゴールは割と似通っているわけですね。