鼻頭を意識するだけで雑念が消える

2020-12-22 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

特に瞑想のあぐらの姿勢を取っていなくても、ことあるごとに眉間を意識するだけでエネルギーが上昇し、それによって雑念が取り払われてゆきます。それは特に雑念のことを意識せずともエネルギー的な作用として起こっているようです。

かと言って私自身の意思がなくなるわけでもなく、単に雑念だけがなくなりますので顕在意識の行動に何ら支障はありません。

これは、先日書いたことの別の面を言い表しているだけで、現象的には同じことです。

鼻頭を意識するだけでエネルギーが高まってムーラダーラのあたりから眉間にまでエネルギーが移動します。そのエネルギーの高まりというのは単にエネルギーだけではなくて、雑念も一緒に洗い流すようなのです。

おそらくは、体の各所に張り付いていた雑念のかけらのようなものがエネルギーの波が来ることで押し流されて綺麗になるのでしょう。

特にその雑念のことを意識する必要は全くなくて、エネルギー的に多少ながら押し流されるようなザラザラとした感覚があって雑念が崩壊してゆきます。それは雑念というよりは単なるエネルギーの塊で、先日他者から受け取ったエネルギーの塊がまだ残っていたり、あるいは、空間を超えて遠くから私のことを想像しているエネルギーだったりします。

どちらにせよエネルギーの欠片が私の周囲に張り付いていますので、エネルギーの波によって不要なものを洗い流すわけです。そうすると雑念があっという間に消えてゆきます。最初はちょっとしたエネルギー酔いのようなものがありますけど割とすぐに雑念は消えてゆきます。

このような、鼻頭に集中する手法は昔から聖典で様々に伸べられていたことです。

そして、この最近の鼻頭への集中の状態は、今まで行っていた鼻頭への集中とはかなり異なります。昔から聖典で言われていましたのでその手法を行っていましたが、どちらかというと後頭部への集中の方が今まではしっくりきていました。

今は、鼻頭への集中がまさにしっくりきます。今は後頭部への集中は不要で鼻頭こそが良い、という感覚に変わりました。

今までであっても鼻頭あるいは眉間への集中瞑想というのはそれなりに効果がありましたが、実のところ、どうして眉間あるいは鼻頭なのか今まで深く理解できておらず、今日と比べるとあまりしっくりきていなかったと言えます。それなりに理解はしていましたしそれなりに効果もあって一応の納得はしていたのですが、後頭部への集中でも同じ効果のような気がしますし後頭部の方が安定するので、どうして聖典ではわざわざ眉間あるいは鼻頭と指定しているのか、そこのところがちょっとよく分からなかったのです。

ですけど、この状態になってみるとまさに鼻頭こそが正解なのだなと感じます。

今まで後頭部に集中していたのはそれはそれで効果があったのかもしれませんし、ずっと眉間に集中していたらどうなっていたのかはわかりませんけど、少なくとも今は鼻頭が一番効果がありますね。今は鼻頭以外は考えられないです。鼻頭がダントツに一番エネルギーが高まりますし雑念に対しても効果があります。素晴らしいです。

これなら、瞑想と日常生活を分けなくても日常生活の中でそれなりの静寂を保てそうです。

これは、ヨーガスートラの最初に書かれてあるヨーガの定義に相当するように思います。

yogas chitta vritti nirodhah

これは、「ヨーガとはチッタ(感情や記憶に関する心)のゆらぎ(振動)を停止(殺滅)させる」という意味です。

これをそのまま読むと「心をなくしてしまって意味があるのだろうか」と解釈してしまうかもしれませんがそういうことではなく、チッタの動きを静止させるという状態そのものを意味しているわけです。再度ゆらぎが起こればチッタ(心)は動きますので、消し去ってしまうわけではありません。言い換えれば、チッタ(心)をうまく制御する、ということです。感情に流されたり記憶やトラウマに流される人生ではなくチッタ(心)は道具として管理していく、ということがヨーガの根幹になります。

そして、このように静止した状態は様々な方法で実現可能ですが、今回のようにエネルギーを高めることによっても可能だということだと思います。

それは、田植え前の、一見荒れ果てているかのように見える水田に水が引き入れられた瞬間に輝きを取り戻して静かな水面になることに似ています。細かな雑念があれやこれや現れていたとしても、エネルギーが高まることによってそれらの雑念は洗い流されてゆくわけです。エネルギーが足りていないからどこからか来た雑念やら何やらに翻弄されてしまうわけですね。

ただ、ここに来るまでにはステップがあって、基本は「集中」が必要だったわけですけれども、ここに来るとそこまでの集中は必要なくて、軽く意識を鼻頭に合わせるくらいでエネルギーが高まって雑念も瞬時に洗い流されていきます。

それが、おそらくはヨーガスートラに書かれてあるヨーガの定義の状態のことなのではないかなと思います。

ここで言うチッタは以下で構成されています。

心(チッタ,Citta)の構成要素
・ブッディ(Buddhi、覚、理性、認識、理論的な思考)
・アハンカーラ(エゴイズム、自我)
・マナス(Manas、意、感情、記憶)

ですので、これら全てが正常に動くためには雑念のような「ゆらぎ(ヴリッティ)」を鎮める必要があるわけです。これらが全くなくなってしまうわけではなく、ゆらぎを取る、というお話です。

雑念が消えた状態でも「意思」は変わらず働き続けることができます。明確な意思は動きつつ、雑念だけが消えるわけです。

その状態でも「見ている者」、いわゆるアートマン(真我)としての観察する意識は働き続けておりますが、それは上記のチッタとは別物で、チッタを眺めている存在としてのアートマン(真我)がいるわけです。アートマン(真我)は最初から変化しなくて、ただ、上記のチッタ(いわゆる心)のみが静まるのです。