愛とはエネルギー

2021-01-01 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

とても単純で、エネルギーが高まれば愛が深まる、ということだと思います。

エネルギーが低ければ誰かから分けてもらいたく思って、それが異性のパートナーだったりします。エネルギーが高ければ愛に包まれている状態になって他人から好かれますし、エネルギーが高い状態であれば他人からエネルギーを奪う必要もありません。

愛には奪う愛とか与える愛とか言われたりすることもありますけど、奪う愛とはエネルギーを奪うことで、与える愛とはエネルギーを与えることです。

他人を縛り付けておくような愛というのは相手からエネルギーを継続的に奪いたいという思考の現れで、それが愛として表現されているだけのことです。しかしながら根本はというとエネルギーのお話です。

他人に奉仕する人というのは他人にエネルギーを与える人なわけです。

愛とはエネルギーの高まりであり、女性であればそのことを「癒やし」と呼ぶかもしれませんし、男性ならば「パワーを高める」と言うかもしれません。

ですけど、根本的なところで言うと実のところその内容としては同じで、エネルギーの性質はちょっと違いますけど、両方ともエネルギーを高めるという点に関しては同一です。

女性ならそれを愛と言いやすいですけど男性なら愛と言いにくいかもしれません。しかしながら、それはエネルギーでありパワーであるのですから、「癒やし」であっても「癒やしのパワー」と言う言葉に違和感がないように、どちらもエネルギーの現れであるわけです。

男性ならば女性から受け取るのは愛で他で受け取るものはパワーだと言葉では分けるかもしれないですけど、どちらにせよエネルギーであり、愛以外のもの、例えば尊敬だとか感謝だとかいうものも結局はというとエネルギーであって、多少は違うエネルギーではありますけど、どちらにせよ愛のエネルギーと言ってもそう違わないものであるわけです。細かく言うとちょっと違う、というお話にはなりますけど、愛がエネルギー、という点に関しては大枠に関してはそうだと言えるわけです。

まあ、私はそんな感じで考えています。他の人は違う考えがあるかもしれませんね。それは好きにすればいいと思います。別に他人の考えを変えるために書いているわけではありませんので。他人は好きに生きればいいと思います。

昔は、この考え方をよく耳にしていても、どこかピンと来ていませんでした。

「愛とは何か?」

これは、普遍的な昔からのテーマかもしれません。

愛というと男女間の愛がまず最初に来て、普遍的な男女を超えた社会的な愛に広がる、というのが一般的な理解だと思います。それはそれでいいのですけど、その枠組が、どこか根本のところでピンときていなかったのですよね。

奪う愛と与える愛、そして普遍的な愛。それぞれ愛の形があって、その枠組で考えると、片方を取ると片方が否定される、という関係にありました。例えば、奪う愛を良くないものとして与える愛を良いものと考える。あるいは普遍的な愛を良いものとすると与える愛も否定されてしまったりする。頭で考えてもなかなか解決することではなかったのですよね。

それが、自らエネルギーが高まって以来、癒やしに対する観念が変わりました。エネルギーが高まることが癒やしあるいはパワー、男らしさ、みたいなところに繋げて考えると、視点が1つ高まったわけです。

個別の事象として愛を捉えるのではなく、エネルギーの流れとして捉える。

そうすると、奪う愛であったとしても与える愛であったとしても普遍的な愛であったとしても全てはエネルギーの現れであるから、何でも全て良しという理解にたどり着くわけですよね。

これは、前に同じことを何度も言われてもどこかピンときていなかったことです。しかしながら、この「すべて良し」の感覚と「愛」の感覚と「エネルギーの流れ」の感覚が私の中で筋が通って腑に落ちている感じです。

そして、愛のことを見てみると、愛とはエネルギーであって、全て良し、という心境になっているわけです。